キルケゴールとニーチェ、フロイト

 この三本を、平行して読んでいる。いずれも、「世界の名著」(中央公論社)シリーズ。
 なぜ、こうなったか。
 発端は、ハイデッガーだった。

「存在と時間」。これを文庫本で読み始めて、その途中でキルケゴールに呼ばれた。呼ばれた、としか言いようがない。
 15歳の頃から、ずっと一緒にいたまま、読まずに来てしまった。今こそ読まねば、という気にさせられた。

 なぜキルケゴールに惹かれるか。
 自分に似ている、との感覚だけは持っていた。この自分が、よく分かっていないにも関わらずである。

 このデンマークの思索家は、自己に正直に生きた人だった。けっして、他者にではない。
 また、だから自分の本質を、そのままに文章化し、彼自身が「生きて」この本に収まっている… 彼自身が、「本質」という存在だったと感じられて仕方ない。

 生き方とか、技術とか、目に見える時間的、歴史的、可視的な行為、そういったものが、この人に接していると、まるで虚飾のように見えてしまう。
 キルケゴールは、本質そのものだ。自分に誠実であった彼自身を、放っておくわけにはいかなかない。

 彼の述べている彼自身は、情熱が絶え間なくあって、生き急ぎ、前のめりになっている箇所に、よく逢着する。すると、読んでいて、よく解らなくなる。
 ここを解せないと、しばらく解せない文が続くことが分かる。そこで、ぼくはひとやすみする。ニーチェの出番だ。

「ツァラトゥストラ」は、平素な言葉で書かれているので読み易い。ユーモラスな描写もあって、噴き出せる箇所さえある。
 ニーチェといえば狂人のようなイメージがあって、怖いけれど、やはり情熱の人だ。自己に、誠実。キルケゴールとの、大いなる接点。

 だが、やはり情熱は、疲れる。こちらも調子のいい時はいいけれど、ついて行けなくなる時間が来る。
 そしてフロイトを読みだす。
 その精神分析は、分析だけあって、読んでいて平静になれる。

 心情的な同意を必要とせず、文字通り文字を追っていれば、そのまま、まるで頭だけで「理解」できるような気になる。
 この三つのサイクル── 自分自身と、超人と、精神分析── 秋の日々が、これでしばらく、回る。