「人間失格」

 思春期に読んだ時は、何やらグッと来るものがあった気がするけれど、今読み直すと、申し訳ない、つまらなかった。太宰が、嫌いでないから、申し訳なく思う。
 小説として、物語仕立てにしながら、どうしようもなく、それを書いている作者本人の姿が見える、そういう書き方が太宰の特徴だと思うが、これはいけない。「人間失格」は、いけない。
 自死する最後の小説だったか知らないが、読んでいて、つらかった。もしこれが最後の作品だとしたら、「書けなくなって」死んだという見方も、何だか首肯できてしまう。

 こんな感想をもって、これを書く自分のことを鏡に映せば、ああ、トシをとったのかなと思う。「若い」頃は、「そうだ、これが太宰だ」と、太宰が書いたというだけで、それを読んで喜ぶことができていた。今は、文字を、文字通り読んでいる。太宰だというだけで、心酔することができない。読んでいて、イヤな気持ちになってしまった。

「健全」。そんなもんを、こんな自分でも、意識しているんだろうか。同じ自殺志願者というか、「太宰の次はコイツだろう」と言われていた椎名麟三は、自殺せず、さいごまで生きた。この人の書いたものは、どんなにわけのわからないことが書いてあろうが、イヤな気持ちにならず、追うことができる。「人間失格」は、無理だった。

「人間失格」なのだから、そういう人間が主人公である。その主人公の書いた手記、という形で物語は進行する。
 だが、その「はしがき」には、「これは、○×君のノートである」というようなことが弁解のように書かれ、それは、舞台設定として、仕方がないとも思えたが、「あとがき」には、「いろいろ、このノートに手を加えようと思ったが、このままにした」といったような、やはり弁解めいたことを言って終わっている。

 内容も、何やら言葉にかなり執着し、時間をかけて書いている感が煮詰まっているけれど、言葉に執心するあまり、もどかしさばかりが、読んでいて、伝わってきて、こちらも、もどかしい、「もういいよ」といった気分に陥った。

 何か、今までの書き方を変えよう、変わろう、というような、苦心さも見えた。
 作家は、同一レベルの小説しか書けないというから、同じようなことばかり書いてきた太宰の自覚、そこから脱却しようとした足跡も、感じられた。
 だが、今まで他の小説で書いてきたようなものを、もう一度、精密に、じっくり書いてみよう、自分自身を書いてみよう、それ以上のものは書けないのだ、というような、諦念めいたものも感じられた。

 そんなに、ムリしなくてよかったのに。今まで書いた小説だって、十分面白かったし、同じようなことを、そのまま繰り返し、書いて、よかったじゃないか。
「荘子」なんて、同じようなことを、表現を変えるだけで、繰り返し繰り返し、書いて、立派な本になってるんだから… 太宰に、そんな言葉を、掛けたくなった。