「火の鳥」

「火の鳥」をようやっと読み終える。
 マンガだけれど、へたな小説よりもよほど読み応えのある物語。
 マンガという域より、「手塚治虫」そのものが、巨大な本として存在し続けている様相。
 この人がこの漫画で訴えたかったのは、「なぜ人は常に争っているのか」の一点だったはず。

 12巻位ある。日本という国ができあがるページあり、コンピュータに政治を牛耳られる未来図あり、何億年も「死ねない」人間あり、ロボットが「私は人間だ。だから自殺する」という描写あり… おおきな、漫画。

「荘子」の訳者、森三樹三郎が、
「人間が幸せな状態に近づくには、理性や合理的な考えだけでは無理であって、宗教・哲学といったものがどうしても必要になる」
 ということを言っていた。
 宗教的なものに挫折した自分としては、哲学に、このヤワすぎる精神の支え棒を求めたい。

 火の鳥が語るに、「宗教と権力が結びつくから、怖いものになるのよ」
 宗教の根元を突いている。
 宗教は、信心がすべてだ。
 そこでは、考える力は無力と化す。
 考えないから、信じることができるのだ。

 手塚治虫は、為政者が宗教を利用することによって、民の不平を収められることを描いている。
 そして民たちも、宗教的なものを、結局求めてしまう。神のような開祖になろうとする、権力志向の人間さえ現れる。

 宗教信者が、たまに、ぼくの家に勧誘に来るのも、「これを信じれば、あなたは幸せになる」との信念あってのことだろう。
 勧誘する自分の行ないも、正しいと信じている。
 彼らが信じているものは、彼ら自身の、信じたいとする心なのに。
 そして、「これが正しい」とする時点で、争いのタネが蒔かれることには、まったく無頓着だ。

 人には、必ず「正しさ」がある。
 ひとりにつき、もれなく、それはついてくる。
 この仕事のやり方がいいんだ、このお皿の置き方がいいんだ、と、職場、家庭生活、人間の集まるところ、些細なことから、その正しさが発露する。
 諍い事の源は、突き詰めれば、たいてい個々人の「正しさ」にある。
 大きくなれば、戦争。

「どうしてこうなってしまうんだろう」
 火の鳥は考える。
 おたがいの違いを認めず、蔑み、優越し、差別をつくり、欲にまみれている。
 争わず、平和に、どうして生きられないのか。
 鳥は考え続ける。

 人間がつくりだした悪いものは、人間自身が、自分で消していくしかない。
 そして、いつか、人間は目覚めて、正しく生命を使ってくれるだろう…
 そう信じて、鳥は宇宙空間を飛んでいく。
 この鳥は、神のように描かれているわけではない。
「生命の集合体、宇宙的存在」として在る。人間から見れば、鳥の姿に見えるというだけ。

「まちがった生命の使い方」が、人間の歴史であることを、手塚は滔々と描いている。
 人間が手ずから作り出した社会、世界が、人間を苦しませているということ。
 何がそうさせるのか、考えざるを得なくなる。
 どんな社会のあり方であればいいのか。
 こちらも、文章を通して、「こうしたら、世の中、そんなに悪くならないんじゃないか」というようなことを、書きたい思いにさせられる。