内と外

「荘子は気分で読むもので、あの哲学を実践しようなんてムリな話さ」

 諸子百家が、そう言ったとか。

 だがキルケゴールは言っている、「実生活の中で生かされて、思想は初めて『生きた思想』となる」

 生活の中、実生活、生きていく中で生かされない思想に、何の意味があろう?

 ニーチェ、キルケゴールの二人は、机にひっつき張って論文を書くような「机上の空論」を嫌った。僕が、この二人の思想家が好きな理由はここにある。

 彼らは、真実の探求者だったと思う。

 真実に、客観・主観の二種があるとして、しかしほんとうの真実があるとしたら、自己の内にあるだろう。その内へ、内へと向かい、思索に思索を重ねていったのが、ニーチェとキルケゴールの哲学の仕方だったと思う。

 哲学などというと、いかにもとっつきにくく、角張ってしまうけれど、要するに「ものの見方」「考え方」だと僕は考えている。漠然とした頭の中を整理する手段、人間について考える手立て。引いては「自分を生き易くするため」、「いかに幸せになろうとするか」のヒントのようなものが、「考えなければならない本」の中には散りばめられていると思う。

 安易なマニュアル本ではない。自分で考えなければならない本でなくてはならない。人間どうしの相性のような面もある。この人に惹かれる──この人の書いたものがどうしても気になる。よく解らないが、とにかく自分の中に入って来てしまう── そういう本が、自分にとって最大の良書なのだと思う。

 ニーチェとキルケゴールは、もっと内へ向え、もっと内へ向え、と、自分が何か書こうとする時、後ろから大きく励ましてくれる存在だ。

 だが、荘子。
 荘子は、そうはいかない。「枯れ木のようになれ」「空虚のままでよい」と、モトもコもなくなるようなことを荘子は平気で言ってくる。

「言葉で、何が言えるかね?」と、言葉に対する不信も、平気で言う。

 そう。まったく、その通りです、と僕は力なくうなずく。そして気が楽になる。

 だが、荘子の言うことを聞いていたら、何も書けなくなってしまう。「無為がヨシ」というのだから、何もしないのが良い、何もしないでいたい、とさえ思えてしまう。

 そして何もしないでは生きられない。

 何かするのは仕方ないとして、要はそこに下心とか、邪心とか打算とか、「はかりごと」をする心を、荘子は戒めているのであって、何かすることを悪いとは言っていないだろうとは思う。

 でも、やはり荘子の思想は、人間の一つの完成形、完全体、と感じられてならない。

 そう、何もしないこと。無為、無策。何も思わず、何も考えない。そんな状態でいられたら、と、憧れずにはいられない。

 この自己矛盾。ニーチェ・キルケゴールと荘子は、全く正反対のベクトルなのか…
 自分が何か書くにあたって、荘子はちょっと困った存在だった。眠れぬ夜や深刻な悩みの時間には、精神安定剤のような存在だったが…。

 だが、どうも「実存」という哲学の点から、どうも接点がありそうなのだ、この三人に。

 ──ところで、現実の世界(?)を見れば、何やら倫理、モラルといったもの、人間の「質」のようなものに高低があるとしたら、低くなっているように思えることが多い。YouTubeでバズろうと迷惑行為をしたり、人のことをまるで考えず身勝手な振る舞いをする人間が多くなった気がする。政治の世界然り、言葉が信じられず、すべてがカタチばかりに形骸化されてしまった感がある。

 自分も日頃の行いをよく省みれば、何もエラそうなことを言える人間ではないけれど、哲学、思想といったものは、ヒトが生きていく上で欠かしてはならない、大切なもののように思える。学問、などというと、またしかつめらしい。

 儲けとか、お金が第一だとか、数字や目に見える結果ばかりが重視されても、それをつくり出す精神、人間自身の個人の性質が軽んじられては、カタチばかりが蔓延って中身のない無味乾燥な社会になってしまう。

 もう、なっているのか。昔から何も変わっていないのか。
 自分がつまらない人間だから、この世もつまらなく見えるのか…

 とにかく考え続けたい。こんな自分にだって、考えることはできる。そして書くことができる。
 考えることで、苦しくなることも多いけれど、これが自分の性質なんだ。この点は、あきらめた方がいい、と自分でも分かっている。
 何のせいでもなく、誰のせいでもなく。自分のために、こうしている(苦しんでる?)んだ、と。

 受け入れよう、受け入れよう。内へ、内へ。