ドストエフスキー(3)「おかしな人間の夢」

 もう本を読む気力も失くなったし、腰もまたおかしくなった。
 頭がおかしいのはもともとのこと。
 ああ、ああと絶望的な気分のうちに数日が過ぎた。

 秋の晴れ間、ツレと一緒に何となく商店街へ歩く。
「本屋、寄っていい?」にうなずき、消極的に本屋に入る。
 漠然とドストエフスキーを探す。
 光文社古典新訳文庫から、「白夜・おかしな人間の夢」が出ていたのを発見。
 二晩で読む。

「個我」という言葉を初めて知った。
 ロシア語で、ナントカというらしい。
 訳者は「個我」と訳している。
 解説も分かり易く、夜中に読んだせいもあって、ほとんど圧倒的な感動に打たれた。
「白夜」はしっくり来なかったが…
 そういえば、「二重人格」(岩波文庫)も良かった。もう、内容は忘れてしまったが…。

 ドストエフスキーの「悪霊」に、
「老婆を殴り殺してもいい。少女を姦淫してもいい。だが、してもいい、と本当に知っている人は、そういうことをしないだろう」
 という言葉がある。

 どうしてだろう、と、何となく分かる気がしながら、引っ掛かっていた言葉。
「おかしな人間の夢」で、分かる気を強くした。

「こうすれば幸福になれる」、
 その「こうすれば」は、おそらく誰もが知っているのだ。
 質素に暮らし、作り笑いでもいいから笑い、あまり憂鬱にならないこと。

 そう意識し、ただそれを目指すだけで、けっこうなものだろう。
 だが、現実としては、なかなかそういかない。
 差別がなくなり、戦争がなくなり、夢物語のように皆が幸福になればいい。
 だが、現実はそうはいかない。
 ただ、こうすれば幸福になる、という方途は、知っているはずなのだ。
 
 ドストエフスキーはキリストを信じている。
 地上の楽園は、できあがることができる、と信じているふうに、ぼくには思える。
 それは最終的にできあがるもので、それまでの道程、過程を生きているのだ、と。

 みんな、個我に夢中で、そんな最終点を誰も求めていない、しかしそんな時を経て、よりよい世界へ、我々は行くのだ、と。
(死ではなく、生の中で、と思いたい。しかしそういう世界を目指そう、なんて、結局は共通の認識、信ずるところを同じにするしかなく、つまりは宗教になってしまうのか?)

 いや、宗教アレルギーのある私には、キリストなんか信じられそうにない。
 が、ドストエフスキーは信じたい。
(言葉の定義。幸福…、憂いのないこと。憂おうとしないこと。笑っていられること。笑おうとすることができること。)