ドストエフスキー、キルケゴール、ニーチェ、セリーヌ…

 ぼくはキリスト教を信じていない。キルケゴールを信じている。そのキルケゴールはキリストを信じていた。
「人は、自ら欺かれたがっている。」それはドストエフスキーも言っていたことだ。彼は、ロシア正教を信じていたはずだ。
 ドストエフスキーとキルケゴールは似ている。
「こうすれば楽園に行けるというのに、それを知っているのに人間はそうしない」

「騙されたいのだ。人間は、騙されたいのだ。」
 それが楽なんだとぼくは思う。

「大衆は愚かだ、だから大衆なのだ」ニーチェは激しい言葉で「愚民」を睨んだ。

 キルケゴールは、キリスト教会と牧師たちに激しい攻撃をした。「信じれば救われる、そんなことを説く牧師は詐欺師だ。人を騙して金を儲ける。そして人は救われようとして日曜日にありがたい教えを聞きに行く」
 キルケゴールはほんとうにキリストを信じていた。

 なんという勇気だったろう、当時のキリスト教会を公然と批判する。
 なんという《単独者》だったろう。
 世界中、敵に回すようなものだ。

 セリーヌとも通じている。

 ドストエフスキーが今も読まれ、かれらがもうほとんど読まれないとしたら、小説とそうでないもの、の違いがあるように思われる。
 かれらは(モンテーニュもそうだった)小説という《仲介》を用いず、自己探求、いわばエッセイ的な「自己」へ向かい、「自分の言葉」で言うことにこだわった。

 ニーチェは「もうツァラトゥストラに語らせない、自分の言葉で言う!」と言った。

 かれらの勇気、その勇気、とんでもない、どんな想像も絶するだろう。

 自己欺瞞、それをこそ罪、言えば悪、その根源とぼくは思う。自分で自分を欺くのだ。自分に正直になれない、正直でない、自分に嘘をつく人間は、人から騙されて当然じゃないか、騙されることに慣れ切っているじゃないか、それこそ空気を吸うように!
 自分と自分との関係で既に騙し合っているのだから。自分で自分を騙しているのだから。

 意思、というのも無視できない。自分から望むように、そうなるものだ、そう見えるものだ。
 卑小な例でいえば、あまりに卑小な例でいえば、(こんな文を表記している場が投稿だからこの場を用いて言おう)「読者に自分の気持ちが伝わっている」と思うとしたら、「伝わってると思いたい」自分がそう|見させて《・・・・》いるのだ。自分に自分を。自分で!
 こう見させる、その目に、その目の血脈を辿れば、「意思」があるのだ。
 それに気づく、自覚、「知った」「知っている」人は少なく見える。おそらく、少ない。

「何億年経ったって、人間は変わりゃしないんだ!」セリーヌが言った。

 自己と自己との関係を。
 修復不可能? 地球、この環境情況と同じように?

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