キルケゴールの触れ方

 もちろん著作、読み物は言葉でできている。言葉を追い、読む。しかしあまりにも言葉に執着し、言葉からのみ、著者の云いたいことを理解しようとして追うと、逆に理解にすら至らない、途中で挫折する憂き目に遭う。
 キルケゴールを読もうとして、自分はよくそうなった。ちゃんと読もう、しっかり読もう、細大漏らさず、この人の云っていることを理解しよう。とすると、読むこともできなくなった。

 しかし「反復」「おそれとおののき」「瞬間」「野の百合、空の鳥」「キリスト教の修練」を読んで、そのような壁が取り払われた。これらの本は、哲学書というより彼のキリスト教への思い、思索家というより人間としてのキルケゴール、彼そのものが、目の前に「いる」ようであった。
 それは叫びのようでもあり、そんな情動的な刹那に捕われたものでもなく、ほんとうのキリスト者は、つまり人間は斯く在れ、聖書の言葉からこうこうこう、だからこうあるべきであるのだ、と、人間としての彼の人間への叫び(けっして叫んでなどいないが)として読めた。

 思索に明け暮れると、それを言葉にするのだから論理的になって、時に論理も跳び超えることもあり、彼の文章について行けない無力感をばかり自覚していた。しかし上記の著作には、その論理よりも彼の肉体、「考える」よりも「動き」が、血肉のあるものの一挙一動が! そこに感じられたのだ。

「哲学的断片」(世界の名著の)を今読んでいて、神、とかキリスト教、という言葉に自分はつまずかなくなった。わかりにくい箇所は適当に読むことになった。といって、ほんとうに適当にではない。わからない箇所は輪郭に留め、あとにそれと密着する文章(言葉)によってそれを補填する、こちらに残った言葉、入って来た印象に重きを置く、著作そのものに重きを置くのでなく、著作を読む自分に重きを置く、という読み方をしている。

 今まで、あまりにも熱心に読もう完全に読もうとするあまり、読めずに挫折を繰り返してきたが、それでは箸にも棒にもかからない、読まない、読めないことになる… これは避けたかった。
 そして訳者がよく言っているように、何回か読まなくては彼を理解することはできないということにも甘えている。

 こうしてキルケゴールに触れていると、なにか人間と関係している、人と関係する関係をしている、という気になる。日常の人間関係、適当に相槌を打ち、いちいち相手の言葉尻を捕えて「これはこういう意味か」と問い質すことなどしない。といって、適当でありいい加減であるが、それだけではない。毎日顔を合わせ、一緒にいる時間のうちに、それだけでは終わらない。ああ、この人はこうだから、こういうことを云いたいんだなと「わかる」。そんな読み方が、キルケゴールには合っている── 自分には。

 ヘーゲルの「正・反・合」といった体系的な、体系に収めること、人間を体系に収めることに異を唱えるキルケゴールの言いぶんがわかる。人間とは精神であり精神とは自己であり自己とは関係であり、そんな正反合なんて段階に人間が組み込まれてはたまらない。(ヘーゲルは途中で挫折したが、その分かりやすい論理は、そうだそうだと思ったが)

 どこまでもキルケゴールは人間のことを人間として考えていたし、捉えていたと思う。学問的な、体系的な、症状に合わせて心理学者が名前をつけて人間を分類するような仕方は、「違う」と云い続けたと思える。実際、そうだと思う。そんな土地を区分するように人間は区分けされるものではない。

 区分けするもしないも、よくわからないところへ行くことには変わらないかもしれないし、それもそうだろうと思う(何しろ見えないものについてなのだ、精神、自己、関係は)。でも、やはりキルケゴールとの関係が、まさに関係が、自分は「わからない」としても、この関係が結局好きなのだと思う。いや好きというより、関係してる、と、わかることが。いやわかってはいないが、関係している、ということが。それは、これは自分との関係であろうし、またもちろんキルケゴールとの関係でもあるのだ。

 彼は、逆説についてもあれこれ云っている。今(2025年)、逆説は疎まれがちな時代と思う。逆説は考えることを必要とする。単刀直入、「これはこうです」という文章を多くの人が好んで読むように思える。「これはこうだが、これはこれとして、しかしあれがそこにあるだろう」といった文章を読むほどの気長さ、悠長さ… それほどの執心、時間を要する読み物は、読まれないと思える。

「人間は、ぐるぐる巻きになっている絨毯を広げなくては、それがどんな模様かわからない」という文が「哲学的断片」にある。ぐるぐる巻きになっている物を、今はそれが商品としてしか価値がなく、そのトリセツを読み、レビューを読み、☆がいくつかを見、それからしか、その物を判断しない、そんな時代に生きていると思う。あまりにも永遠的でない。永遠など、そっぽを向かれる。そうではない、そうではないんだ、と、自分もキルケゴールとともに現世を、今生を、この世を観じて行きたい、といっては大袈裟だ。でも、正直に思う、こんな俗世だからこそ、自分はここにいるのだが、ここにいるために、そう考えて、そうしていたいんだ、と。