しかしキルケゴールは、単純に言って凄い。
この著作、これだけでも膨大(本文のページに著者本人による注釈をあれほど長々と書いている作家を僕は他に知らない)だのに、さらに日記も異常な量を書いているという。
いったい、何が彼をそうさせたのか。いくら自分が34歳で死ぬからといっても、これだけ書ける、こんなに書く時間に生涯をあてた── 書くために生まれてきた人だったんだろうが、それにしてもとんでもないこだわりだ。
彼の文を読んでいると、考えることが言葉に引っ張られ、生み出され、育て、また根を掘り、を繰り返している印象をもつ。反復し、瞬間を逃さず、おそれおののき(おそらく神に)、彼はけっして口に出さないが生への感謝、感謝の念は心底にいつも微生物のように蠢いていただろう。あまりに言葉が多いので、でなければ考えられなかったろう、こちらとしては「無か全か」、
〈彼にとって彼女がいっさいであった。だからいっさいは無であった〉
とでもいう、あれかこれかの選択、自分にとってこの本は何なのか、という意味づけの自由、選ぶことに伴う責任といったものが付随してくる。このつきものは、重い。
何ということもなく、すらすら彼の言うことを聞くこともできる。気軽に彼が話すように、こちらも軽く。茶話会で彼の話を聞くように読むこともできる。いちいち言葉の意味を掘り返さずに。
こちらの読む態度によって、姿勢によって、彼の意味、こちらにとっての意味が変わってくる…気がする。人間と、つきあっている、交流している、交わっている、関係している気になる。本も、変化する。生きている──と思う。
日常生活上の彼は、常識人であったろう。常識人? その定義はともかく、ふつうの、常軌を逸することなく、単なる人であったろう。ひとり書く時に、彼は「異常さ」(それもその著作量、旺盛な創作意欲の結果としての筆量にすぎない)を発揮したのだ。
たしかに言語なくして思考は働くまい。それが人間の特性であるとしたら、彼はあまりにも人間的であった。ああ人間ってのは、そうか人間ってのは、こんなにも考えることができ、こんなにも書くことができるのか。これをまざまざ思い知らされるのが、自分にとってのキルケゴールという存在らしい。
全く、彼は存在している。寝そべって読んで閉じ、そのまま置いてある本をあやまってケッ飛ばしそうになったりすると、あ、ごめんなさい、と謝ってしまう。跨ごうとする時は、迂回して跨ぐ。
「本は、跨いではいけません。人を跨ぐことになるから」と一昔前の人は言っていた、と聞いたことがある。本、著作というものは、生命だったんだろう、本来は。
そういう本と出逢えたというのは、何ともありがたい。相手をありがたいと思う、と、自分の与えられた生命、自分に与えられたこの命も、ありがたく思える。そう思えてならない。思わざるをえない。
関係しているからだろう。どうあれ、何であれ、関係しているからだろう。