「万人に与える書、何びとにも与えぬ書」と、その副題に付いている。
この副題が、すでに読む者をその気にさせるのは、本文を読み進めるうちにより実感として体験することになる。
この副題は、すでにニーチェが読者を選定、限定していることを意味し、その本文を読み進めるうちに「自分は選ばれた読者である」かのような錯覚を起こさせてくれるに、十分な威力を発揮している。
この副題は、「ツァラトゥストラ」という書物の、まるで全てを、この書物の在る意味を、体現していると思う。
読む人を、その気にさせる書物── アンドレ・ジッドの「地の糧」か「新しき糧」が、そのような本だった気もする。
サリンジャーの「ライ麦畑」もそうかもしれない、いわゆるハルキ・ワールドも、静かにそのような気配がなくもない。
要は、読者が同化しやすい主人公、本の世界が自分の日常世界と重ね合わさって見えるような、本の世界と自分の世界の同化── そのような本、そしてそのような本を読む読者が多ければ多いほど、その本は「よく読まれる」ような気がする。
だが、ニーチェの悲劇というか、けっして悲劇とはぼくは捉えないけれど、本人も言っているように「一般民衆と私は歩調が合わない」、「意見が常に一般と食い違う」ことが、この「ツァラトゥストラ」をニーチェに書かせた… 自分の作品が読まれない恨み、理解されぬ恨みが… ように思えてならない。
この「読まれぬ淋しさ」は、「この人を見よ」(新潮文庫)に、これでもかと言い表されている。
ドストエフスキーの「地下室の手記」のような匂いもするが、「この人」はニーチェ自身のことであるから、より現実感、実際にニーチェが感じていた自分という立場、社会における自分の存在が、痛々しくもあるけれど、ユーモアをもって書かれていると思うので、ぼく自身もまるで実体験するように読むことができる。
「私はなぜこんなに賢いのか」「私はなぜこのように素晴らしい本を書くのか」といったような、自分自身に対する正当な評価を下す内容のところでは、かなしいながらも笑って読まずにはいられない。
ニーチェがブッダを、少し尊敬するように感得しているのも面白い。
ところで、「今は賎民の時代だ」と、ツァラトゥストラにニーチェは何回も言わせている。
高い山に上ろうとする人間は少ない。そして高みにある人間であればあるほど、その完成を自身に見ることが、なお難しい。
「だが、あなたがたはこの山に来た。そして、あなたがたは橋なのだ。このツァラトゥストラを受け継ぐ者は、あなたがたではない。あなたがたは、自分の悩みに精一杯で、私のように人間のことを悩んでいない。あなたがたは、まだ小さい。もっともっと遠い未来に、私を受け継ぐ者が現れ、その日はやって来るだろう」
というようなことを言わせたりしている。
「この人を見よ」では、「このツァラトゥストラという書物が、いずれ学校の授業、公教育における学問、教科の一つとして成り立つのではないだろうか」というようなことを大真面目に語っている。ほんとうに、ニーチェは素敵な人だと思う。
「人間的な、あまりに人間的な」が、もう発刊されていないのも淋しい。
アフォリズムで書かれていたようだが、kindleでなら読めるのか。でも、やはり本はページをめくって読みたい。典型的なアナログ人間のぼくとしては、印刷された書物として、紙をめくって読みたい。
もう、物は増やしたくないから、本を買うという行為もしたくないけれど…。