たぶん最も新しい、岸見一郎訳による、角川選書のシリーズ「世界の思想」を読む。
確かにモンテーニュの言う通り、ソクラテスほど徳を身につけ、堂々と人生を渡った人間は、そうそういないのかもしれない。
だが、「ソクラテスも農民も、たいして違わないのだ」というのも全くその通りで、肝心なのは歴史に名を残すことなどではなく、自分にあてがわれた性質、運命を、逸れることなく楽しく、愉快に過ごしましょう、というのに尽きると思う。
たまたまソクラテスはそういう生き方を貫徹し、プラトンによって描かれて後世に残っただけで、もっととんでもない人間もいたに違いない。
そして生き方などは、全く比べるものでもない。
ただ、そのように生きたという人間を知る・知らないとで、こちらにも多大な影響がある。
知らなくていいことなど、この世にはない。
この岸見一郎さんという人は、ぼくの家の近くの女子大学に勤めていたらしい。
そして哲学の講義を受け持ち、受講生は3人しかいなかったが、非常に勉強熱心で、岸見さんは内心で誇らしく思っていたということだ。
だが、大学というのは何なのだろう、その講義は打ち切られてしまった。
きっと熱心に講義をされていた岸見さんの、その時の筆舌に尽くし難い気持ちが、おもんばかられる。
〈 目に見えないものに、大切なことがあるんだよ 〉
と金子みすゞが言ったように、功利・生産、役に立つ/立たないという明白なものだけに人間が生きられるわけがない。
行為行動をつかさどる、内面に、もっと気を遣いたい。
そこから全てが始まるはずなのに。
そこを勉強するのが、哲学であるはずだったのに。
ソクラテスを、現在の自分に生かすにあたっては、「耐える」ということと、身の回りで起こる様々なことを自分に吸収していくという姿勢、これが実践可能だと思える。
「弁明」を読むと、論理というものは、必要であることが分かる。
他者に対しても自己に対しても、言葉、言語による、明朗な、秩序立って流れるような水路が、必要であることが。
そうして、「納得して」、生きることが大切らしい。
だが、なかなか納得できない。
人間として生まれてきた以上、自分が納得して、人生を送れるか否かは、終生背負う運命であるらしい。
しかし、受け容れるしかない。
引き受けるしかない。
そこまでの水脈開通作業が、生きる上で何より肝心であるようだ。
なるべく悲惨な想念に捕らわれず、憂鬱にならず、生きましょう── その手段としての学問が、哲学であるはずだった。