本を通じて

 ぼくは本を読み始めた。
 高野悦子の「二十歳の原点」。学生運動の頃、自殺した女子大生の日記。
 なんで死ななきゃならなかったんだ、と、読みながら涙ぐんだ。
 自分自身を、彼女に投影していたんだと思う。

 漱石の「明暗」「三四郎」。何か勉強をした気がした。
 椎名麟三の「深夜の酒宴」。これはすごい小説だと思った。この人にしか書けない、本物の小説だと思った。
 ドストエフスキーの「虐げられた人びと」。辞書を引く時間の方が多かった。ペテルブルグの砂っぽい空気と、犬のアゾルカと老人のことがひどく心に入ってきた。

 定時制高校の図書室は広く、たくさんの本があった。まったく偶然に、「自殺志願」という題名の本が目についた。
 原題は「The Bell Jar」(さかさまになったコップ)。シルヴィア・プラス。
 自伝的小説で、精神病院で電気ショック療法をやられる描写もあったが、この作家は31歳で自殺していた。ふたりの幼児を残して。

 高野悦子を読んだ時もそうだったが、やはり「なんで死んでしまったんだ」と全身で思った。
「わたしの顔のまわりには、さかさまになったコップが被せられていて、その中でわたしはいつも自家中毒を起こしている」
 この言葉が、胸に刺さった。

 それから、太宰に行った。太宰は、どこかワザトラシクぼくに感じられて、あまり読みたくなかった。
 しかし、読んでみたらハマッた。「走れメロス」だったと思う。「人間失格」も読んだ。文庫本も、ぜんぶ買ってしまった。
 あの太宰の弱い強さ。弱さを売り物にするようなところがハナについていたのだろうけど、読んでみれば、もう離れられなくなった。

 ちゃんと読んでいたのか、自信はない。ただ、あの太宰の文体、言葉、行間に、存在が感じられた。ああ、太宰がいてくれる。それだけで、よかった。

 こんな、自分の読書嗜好からも、元来ぼくには自殺願望めいたものがあったんだと思う。ただ、それは小学4年の時からの不登校がきっかけであって、けっして生まれ持っての性質に依るものではなかった。
 その要素はあったろうけど、それを発芽させたのは「周囲に掛ける自分の迷惑」の意識であり、そうさせる自分がいた、ということだ。

 しかし、自殺してしまった作家たちの本は、今は読まなくなった。
「太宰の次に死ぬのは椎名麟三だ」と言われ、しかしチャンと生き続けた椎名麟三と、あれやこれやと書き続けたモンテーニュ、「空虚であるのはいいことだ。すべてを包み込むではないか」とする「荘子」。

 このお三方の本ばかり、繰り返し繰り返し読んでいる。
 モンテーニュは、よく分からない。でも、分かるところはとても分かって、楽しい。追おう、という気になる。
「荘子」は、分かり易い。そして自分がおおきくなれる気がする。
 椎名さんは、いてくれるだけでありがたい存在だ。この三人の作家のページを開くと、ぼくは安心する。

 その時期その時期で、好きな本の嗜好は変わる。
 とすると、自分は今生きたがっているんだと思う。
 何も、好きこのんで死にたくなんかない。
 それが、ほんとうのほんとうなんだと思う。

 ただ、死にたいなぁ、と想う時、もう一方の生きたい、が、グンと軽くなってしまうのだ。
 天秤ばかりの、偏り。気をつけなければならない、と、頭では分かっているのだけれど。

 今まで読んだ本について、過去から現在に渡って、書いていこうと思います。