山室静の「ギリシャ神話」。
プロメテウスは、人間が大好きな神だった。人間に言葉を教え、ものを書いたり読んだりすることを教えた。
家や道具をつくること、牛の乳をしぼれば飲めること、タネをまけば実が成って、食べれることも教えた。
原初の人間は、何の武器もなく、ほかの強い肉食動物におびえ、びくびく暮らす弱々しい生物だった。
ゼウスが「火を使うことは教えてはならんぞ。あれを教えたら、人間は気が強くなって、とんでもないことになる」と言っていたにも関わらず、プロメテウスは人間に火を与えた。
人間を、かわいそうに思ったからだ。
どうやって肉をあぶり、パンを焼くか。鉄を溶かし、刃物をつくるか。
木と木をこすれば、火がつくことも教えた。人間は、みるみる、ほかの生物を支配する力をつけていく。
言いつけを守らなかったプロメテウスに、ゼウスは恐ろしい罰を与えた
磔にされ、永遠に鷲や鷹にはらわたを食われ続けるという罰だ。
思い上がる人間にも、懲らしめるべく罰を与えた。パンドラという美しい女を地上に送ったのだ。
プロメテウスの弟・エピメテウスは、この美しいパンドラと結婚する。
このふたりが、ギリシャ神話における「人類の祖」であった。
そのエピメテウスの家には、心優しき兄の遺した箱があった。人間を苦しめたくなかったプロメテウスは、その中にあらゆる災厄、人間の苦となる病、憂い、憎しみ、妬み、悪だくみを閉じ込めておいたのだ。
「けっして開けぬように」と弟に言い残して。
だが、パンドラは彼に「開けてくれ」とせがんだ。
愛する妻に負け、彼は箱を開けてしまう。
中から飛び出したのは、未来永劫人間を苦しめる、ありとある悪徳だ。怖くなったパンドラは、思わずフタを閉めた。
だが、箱の中から声がする。「わたしを外に出して下さい」
パンドラがおそるおそる、「おまえは誰?」と訊くと、「わたし、希望よ」と声が答えた。
思慮深く、人間を愛したプロメテウスは、ゼウスが人間を苦しめかねないことを考えて、箱の底に希望を入れておいたのだった。
その他、海をつかさどるポセイドン、地底の煉獄を統べるハーデス(天の神ゼウスの弟)、「記憶の神」ムネーモシュネー…じつに様々な神が、ギリシャ神話には登場する。
天に君臨するゼウスが、万物の創造主的存在だ。
しかしこの男、ひどい浮気性なのだ。
妻のヘラから、いつも疑われている。光の神・アポロンは、ゼウスとレトの間にできた、不倫の子どもだ。
キューピットも登場するが、この天使は悪戯好きで、ゼウスの胸に矢を射って、地上にいるひとりの娘を愛せざるを得なくしたりする。
しかし、プロメテウス。どうしてそんなに人間を愛したのだろう。
ほかの動物たちと同等に、差別なく、扱ってほしいものだった。
火を使うことによって、確かに人間は、この世を終わらせる核をつくり、それを燃料に原発をつくり、あやうい土台の上で利便に富んだ生活を営んでいる。
某ウイルスが、あのパンドラの箱から飛び出したものであるとしても、そして希望が最後に残っているとしても、それは与えられたものではなく、人間がつくり出していくもののように思える。
〈 神が人間をつくったことは証明できないが、人間が神をつくったことは証明できる 〉
神が嘆いているとしたら、それは人間の嘆きだろう。
エロスもディオニュソスも、人間を映した鏡以上にはなれなかった。
人間に似せない姿の神は、およそ神ではない。
もしプロメテウスがカエルを愛したなら、プロメテウスはカエルの姿になっただろう。
今、ギリシャの神々は、元気だろうか。
今までしてきたことが、間違っていたと、後悔しているだろうか。
パンドラの箱は、人間を悩ますものではなく、こんなに悪いこともあるよ、という「例」を見せてくれた箱のように思う。
それらを、「自分のものにせぬよう、気をつけて」という、プロメテウスの訓戒のような。
最後の希望は、人間を愛した彼の、「ぼくはいなくなるけど、あとは頼んだよ」という、たっての希望、彼自身の最後の望みだったような気がする。