田山花袋と中勘助

 友達から借りた、田山花袋の「蒲団・一兵卒」(岩波文庫)を読んでいる。
 まだ途中。でも、「蒲団」、面白い。
 綺麗な女の子を弟子に持ち、彼女への恋心にトキメいている、妻子持ちの中年作家のことが描かれている。田山花袋本人のことを書いた、私小説なのかもしれない。

 3人目の子どもを「細君」は身籠っているにもかかわらず、「この妻が突然死んだら、自分はこの弟子の女の子を後妻にしたいけど、できるだろうか、いいのだろうか」みたいなことを、ひとりで考えていたりする。
 私小説だとしたら、ほんとうに強大な妄想力をもった人である。作家は妄想力がないと、なれないのかもしれないが。

 中勘助という人は、漱石に評価されて世に出たような作家で、もともとは詩を書いていた人らしい。
「銀の匙」(岩波文庫)という本で、(キャットフードに「銀のスプーン」というのがあるけれど)中勘助の幼少時の思い出話みたいな内容。
 大江健三郎は「わたしは詩をあきらめた人間」と云っていたけれど、中勘助は、なかなか詩をあきらめられなかった人だったような。

 しかし、詩にせよ小説にせよ、こだわりがないと、書けまい。あきらめるにしても、こだわるものがないと、あきらめることさえできない。何かにこだわるのは、やっぱりだいじなことだ。

 こだわって、苦しくなって、軽くなりたくなってまたこだわって、そんな環の中で、なんだか生きてくという。
 本を読むのも苦しい時があるけれど、書いてた人も苦しかったんだろうナ。
 何のために? 自分のために。

 ───────────

 田山花袋。
 最初のうちは面白かったけど、この作者の、内面の縷々たる動きの表現に、自身が徐々に手を焼き始めた様子。
 その「中たるみ」感が途中から感じられて、読み始めた頃の魅惑、読み終えてみれば、さして残跡なし。

 事実のみに重きをおいて書いた「私小説」ではなく、自己の内面吐露を、明治40年、20歳ほどの女弟子を恋した、妻子ある分別ある中年の作家が、克明におこなった、というところに、この作の意義があるんだろうか?

 あとは、中勘助だ。シブイネ、明治。