(2)孟子

 乱世の不穏な空気の原因は、その君主の圧政にある。
 前時代の平和な時代は、国はこんなに民を管理し、刑罰・法律も、厳格でなかった。
 国が民に、法の圧力をかけては、その法をかいくぐって、逆に悪さをする人間が増えるだろう、と孔子は考えた。

 何より、厳しい法律の下では、人間は主体的な「良心」を働かすよりも、罰を恐れるようになる。
 後退の精神、これをしたら、こうされるという、マイナスにしか目が行かなくなる。
 良心の消滅、良心から生まれる人間としての尊い「恥」を知る機会を失い、悪知恵を悪とも思わぬ心が、平気で働くようになるだろう。

 法律で、人間を縛るべきでない。そこで、法に代わって、「道徳」による治世を行なうべきだと主張したのだった。
 その根幹となる、家族愛・家族主義。親を愛し、孝行をする人間には、その心の働きが国家にも向けられる基盤が養われるだろう── とまで、孔子が考えていたかどうかは分からない。

 道徳によって国を治めるとして、では政治は具体的に何をすればいいのか。あまりに漠然としていた。
 その具体的な方策として、孔子は「礼」を唱えた。礼とは、「お行儀よく」、そして、しきたり、慣習、「人間社会はこうして成り立ってきた」という前時代の因襲を大切にしましょう… まるで学校教育の権化たる、孔子の目指し先。

 そして孔子は儀礼の「型」をつくった。冠婚葬祭、様式、形式を重んじ、衣服や住居のありかたにまで言及し、「各々の身分に見合った形でそれを行なうこと」を規定した。
 社会平和の秩序が崩壊する乱世にあって、孔子がこの世に訴えたことは、世を建て直すための「仁」(愛=家族愛を基本とする)の心、「礼」の義務、この2点に集約されよう。
 しかし社会における平和秩序、その秩序とは、人間を序列化すること、格差をつけることの「差別化」なくして、成り立たなかった。

 だが、しかし、このピラミッド型の秩序を守ることによって、かの国はその後2000年、安泰が保たれたというのだった。
 孔子の「儒教」は、その王朝支配の体制に欠かせぬ根幹思想として、かの国を支え続け、差別社会からの解放を訴える時代が来るまで、儒教が公然と批判されることはなかった。

 その間に、様々な思想家が現れた。最も多くの思想家が現れ、論じられ、豊かで充実した思想の時期は、過酷をきわめる戦国時代、孔子の死んだ後にあった。
「性善説」の孟子もその1人だった。この人は、孔子の考えを受け継いだ「儒家」のひとりだったが、「民衆のために政治は行われるべきだ」と主張し、そのためには「革命も認める」ことを強調した。
「大切なのは民であり、君主はその従僕にすぎないのだ」とさえ言い切った。

「もし君主が自分の利益に走り、民衆の幸福を省みないのであれば、征伐しても構わない。」
 この孟子の徹底した「民本主義」(民主どころではない、民が『本』だった)は、孔子にはない激烈さを伴った。
 だが、「では、政治は民衆が行なうのか」と問われると、孟子は返答に困った。

 民衆によって政治がなされる世界など、あり得るのか? そも、政治が不必要になるのではないか? そもそも、そんな世界が、この世にあった試しがあるか?

 孟子の主張した「民による政治」は、実現することはなかった。
 その理由として、かの国の格差社会がつくった「民衆の無知」が原因だったといわれている。書物を読んだり、ものを書く「字」を知っている者は、多くの民に、いなかった。
 孟子は、かの国の各地に学校をつくり、民に「教育」を施そうとしたが、それもついに叶わなかった。