椎名麟三の短編に「福寿荘」というのがある。
福寿荘(アパート)に住むひとりの老婆の日常。ただ、老婆はことあるごとに、「直次が帰ってくれば」「直次が帰ってくれば」と思う。願い、のようでもある。
その直次は、生きているのか死んでいるのか分からない。老婆の、息子であるのは確かだが、どこにいるのかも分からない。
ただ、老婆は、直次が帰ってくるのを信じている。直次が帰ってくれば、老婆が日常に抱える諸問題も、たちどころに解決する。直次が帰ってくれば、老婆の心は一気に晴れやかになる。
直次が帰ってくれば。直次が帰ってきさえすれば…。
だが直次が老婆の前に現れることはないまま、小説は終わっている。ただ老婆は、直次が帰ってくることを待っている。
老婆は、おせじにも良い境遇にいるとはいえない。絶望的なものだったと言える。しかし、直次が帰ってくれば、老婆をとりまくあらゆる不幸のすべてが好転するのだ。
ヒトって、常にそういうふうに生きてきたのではないか、希望なんかどこにもない現実だからこそ、自分の中に、自分の手で、希望をつくり得るのではないか、と感じ入った小説だった。
太宰治も、「待つ」という短編を書いている。「とにかく『待つ』という文字が、大文字で頭に張り付いた」「『待つ』という言葉が、太く大きな書体をもって浮かび、目の裏に飛び込んできた」、そんなふうな根拠で書いた小説だったらしい。
駅で、女の人が、待っている。来るか来ないか分からない、約束もしていない、相手が男なのか女なのかも分からない。ただ、「わたしは待っている」という内容だった。
待つ、ということには、何か運命的な、宿命的なものを感じる。
まるでこの自分自身も、この世に生まれる前、どこかの世界で、待っていたような…。