漱石の「虞美人草」を読んでいる。
漱石は、時間がかかる。辞書を引き引き読まなければ、先へ進めない。
「なんとなく」わかる、という態度で読み進めるには、惜し過ぎる。
また、漢字の意味がわかっても、その文全体を理解するのに、また時間がかかる。短いワンセンテンスでも、何回も読み返したりする。
漱石の描く世界は、気持ちがいい。
写実だと思う。現実をこんなふうに、あるいは心情をこんなにも、表現できるものなのかと思う。
言葉って、素晴らしいなと思う。
そして、この世の世界さえ、実は、そんなふうに、素晴らしいんじゃないか、とさえも思えてくる。
この世を悲嘆する者は、ただ、それに眼を向けないだけなんじゃないか、と。
いや、その悲嘆さえ、実は、ほんとうのところは、悪くないんではないか、と思えてくる。
ここに、1コのコップがある。
それを、100人が描けば、100通りのコップが出来上がる。
現実のコップは1つだのに、そのコップは、描く者によって、姿かたちが容赦なく変わっていく。
現実のコップは1つだのに、どんどん1つではなくなっていく。
とっても、おもしろい。
ただ、その表象化されたコップ、それだけにとらわれたくはない。
それが表現者のすべてである、と思えない。
それはコップに過ぎないからだ。
そのコップを描いた人間は、コップではないからだ。
ただ、ぼくは、できれば、でき得る限り、いっしょうけんめい、描きたいと思う。
ほとんど、願望に過ぎないかもしれない。阿呆のようでもある。
「形ばかりを見ている者は、盲目である」と云った漱石の描くコップ、台所、食器棚、庭、町、人が、ぼくは好きである。