漱石(3)「門」

〈 こっちを立てれば、あっちが立たず、あっちを立てれば、こっちが立たず、とかくこの世は生きにくい。〉
 漱石、それでも、言葉、立て続けた。

「それから」を読んでしまったので、「門」を読んでいる。
「三四郎」から始まる三部作、その「三四郎」は「門」の後に読む。
 順序が逆になってしまったけど、こどもの頃にこの三部作、特に「三四郎」は入念に目を入れたから、順序に捉われず、また当時の感覚を再生させながら「三四郎」は読めると思う。

「門」は、最初読み始めの頃は、読んでいて辛かった。
 淡々と、ただ情景の描写、主人公の宗助と妻の御米の日常といったものばかりが、これといった起伏もなく、全く平坦に書かれているだけで、一体これが何になるんだろう、と、読んでいて不毛のような気さえしていた。

 だが、宗助の家を貸す大家の坂井の登場辺りから、一気にぼくの読む目が変わってしまった。
 それまで、まるで不毛に感じていた描写が、その一切が、打って変わって強く、愛しく感じられるようになった。
 また、あの「不毛」の頃を読み返したいと思うようにまでなった。

「それから」は、三四郎のその後である。
 友達の奥さんをつまり奪ってしまって、要するに不倫ということだが、「こころ」のようにドラマチックな物語のような気配も感じた。
 が、「門」は、至って地味な印象で、しかしその地味が、たまらなく愛しく感じられるようになった。
 御米はいるけれども、友達を持たない、いわば孤独な宗助に、ぼくは胸の奥でとても愛着を感じざるを得なくなってしまった。

 漱石。
 面白いのだけど、つまらない、と感じる時がある。
 いや、つまらなくないのだけど、面白いだけ、と感じる時がある。
 で、面白さを感じるだけ、のように読むのだが、そんな姿勢ではそれだけになってしまう。
 読み終えるのがもったいなく感じる時もある。

「こころ」には、なぜだか涙したが(たぶん、「自殺」が絡んでいたからだろう)、今「彼岸過迄」を半分前くらいまで読んでいて、ただその心理や環境・人物描写だけに感心させられるだけで、何か物足りない。
 まったく、こういうのは、読む人間と書物の関係、そのタイミングの問題だろう。

 ぼくにとても精神的にも経済的にも余裕があって、ベランダで籐椅子にでも座って、ジャスミン・ティーでも飲みながら読むならいい… といっては、いい過ぎか。
 気になる存在ではあり続けていくだろうが、何かブルジョア的な、裕福だからこそ出来るような苦悩、そこから漱石、始まってるんじゃないか… とも、言い過ぎか。

 漱石の描いた「労働」は、「坑夫」しか知らない。
 大学講師や朝日新聞社社員であったことは知っているけれど、いわゆる「3K」の仕事とか、底辺の労務に就いたことはないのだろうか。
 多くの主人公が、あまり働いていないような気がする。

 漱石は、これを書くことで自己を救済、少しでも、できたのだろうか?
 たぶん、「自分は救われない」ことを分かりながら、救いを、「文学」に求めていたような気がする。
 そう、救われないと分かっていながらも、救われよう、とすることができるのだ、人間は。