漱石(2)「吾輩」君の最期

 苦沙弥先生曰く、
「死ぬことは苦しい。しかし死ぬことができなければ、なお苦しい。神経衰弱の国民には、生きていることが、死よりも甚だしき苦痛である。
 したがって死を苦にする。死ぬのがいやだから苦にするのではない。どうして死ぬのが一番よかろう、と心配するのである。…」

「だいぶ物騒なことになりますね」
「なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンズという人の書いた脚本の中に、しきりに自殺を主張する哲学者があって…」
「自殺するんですか」
「ところが惜しいことに、しないのだがね。しかし今から千年もたてばみんな実行するに相違ないよ。万年の後には、死といえば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる」
「大変なことになりますね」
「なるよ、きっとなる。…」
 漱石の「吾輩は猫である」読了。

「吾輩」君は、引き上げた主人とその友人たちがあげた杯の、コップに残ったビールをピチャピチャ2杯飲み、酔っ払い、ふらふらと歩くうちに甕(かめ)の中へ落ちてしまう。
 甕には、水が入っている。

「水から甕の縁まで四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び上がっても出られない。呑気にしていれば沈むばかりだ。
 もがけばガリガリと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちグウッともぐる。
 もぐれば苦しいから、すぐガリガリをやる。そのうち身体が疲れてくる。気は焦るが、足はさほど効かなくなる。
 ついにはもぐる為に甕を掻くのか、掻く為にもぐるのか、自分でも分かりにくくなった。」

「そのとき苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのは、つまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが、あがれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。
 よし水の面に身体が浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって、五寸にあまる甕の縁に、爪のかかりようがない。甕の縁に爪のかかりようがなければ、いくらもがいても、あせっても、百年の間身を粉にしても、出られっこない。
 出られないものと分かり切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。
 つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問にかかっているのは馬鹿気ている。」

「もうよそう。勝手にするがいい。ガリガリは、これぎり、御免こうむるよ 。と、前足も、後ろ足も、頭も尾も、自然の力に任せて抵抗しないことにした。
 次第に楽になってくる。苦しいのだか、ありがたいのだか、見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然しない。どこにどうしていても差支はない。只楽である。
 否、楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落とし、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。
 吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は、死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。ありがたい、ありがたい。」

 … 「吾輩」君は、また、こんなことも云っていた。
「主人は早晩、胃病で死ぬ。金田のじいさんは慾でもう死んでいる。秋の木の葉は大概落ち尽くした。死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢いかもしれない。諸先生の説に従えば、人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると、猫もそんな窮屈な世に生まれなくてはならなくなる。恐るべきことだ。」

 吾輩君。
 そんな窮屈な世を、もうこれ以上、こしらえないよう、やっていきたいものだ、と、君を読んだ人間の一人として、ぼくは、心して、おもうよ。