大江健三郎(1)

「空の怪物アグイー」

 その音楽家には、アグイーが見えていた。
 アグイーは、ふいに空から舞い降りて、音楽家の横に立つ。

 カンガルーほどの大きさで、木綿の肌着を身につけた、太った赤ん坊。
 音楽家には、その妻の産んだ赤ん坊がいた。
 だが、頭に大きな瘤があった。
 医者の誤診により、その子は、殺されることになる。
 ミルクを飲まされず、砂糖水だけを与えられて。音楽家も、それを認めていた。つまり、殺したのだ。

 以来、音楽家は、自室に閉じこもるようになる。
 だが、開いた窓から、たまにアグイーが空から降りて、入ってくる。

 アグイー、とその音楽家が名づけたのは、その赤ん坊が産まれてこの世で発した音、音楽家が唯一聞いた、赤ん坊の口から出た唯一の音が、「アグイー」だったから。

 バイトで雇われた青年が、その音楽家と街へ出る。
 空からアグイーが降りてきた。
 交差点の信号が変わった。
 だがアグイーは歩いて行ったのだ。
 救助しようと音楽家も交差点へ飛び出し、トラックに轢かれて死ぬ。

 アグイーは、失われた大切なもの、葬られ、喪われた大切なものの、ひとつの、かたち。
 ほら、いっぱい空中に浮遊している。100mほど上空に、それらは、丸みを帯びたかたちで。

 大江健三郎、初期だかの作品。

 アグイーと、友達になりたいと思った。

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「ピンチランナー調書」

 … 森(モリ)、というのは、その父母の間に生まれた子の名前。
 その森・父は、原子力発電所に勤めていた。
 森・父は被爆する。
 森は、脳に障害をもって生まれた。
 森・母は、「おまえがプルトニウムに被爆しながら、性交を重ねたから、この子が生まれたのだ」と森・父を糾弾する。

 おそるべき夫婦喧嘩の最中の描写… ドイツ製、ゾーリンゲンのカミソリを手に、森・母は森・父に襲い掛かる。
 森・父は、頬の筋肉をバックリ切られる。
 森・父は、その頬から、歯と義歯をむき出しにしながら、この傷口を相手に見せつけたい。
 血を床にそそがせながら暗闇の部屋に照明のスイッチをいれる。

 だが、逆に森・父は、見せつけられることになる。
 森・母が、森・父に突き飛ばされた際の鼻血で顔面を真っ赤に染めながら、ゾーリンゲンのカミソリを手首に当て、自殺しようとしていたからだ。
 森・父は、ドアの下傍にあった、バネ仕掛けのネズミ捕り器を森・母に投げつける。
 バチン、と森・母の右手首をはさむ。
 森・母はネズミどころじゃない叫び声をあげる。

 森は、ベッドの脇で、恐怖と不安のためにムームー唸っている。
 ネズミ捕り器をやっと外した森・母は、鼻血のためにプープー音を発している。
 頬を裂かれた森・父は昂奮のためにウーウー言っている。
 この3者の音は、1つの部屋の中で不可思議な協奏を奏でている。

 森・母は、森を連れて家を出て行こうとする。
 森・父は、「森、森、おれといよう」と言うのだが、頬の傷のために「ヨイィ、ヨイィ、ヨイィィィヨ」としか言えない。

 … こんな感じで、この森・父と森・母の諍いの描写、数ページかに渡って続く。凄惨たるものである。
 しかし、こんな酷たらしい描写を見せつけられても、何故なのか、滑稽さを感じてならない。
 大江の、ある種偏執的な、こういう描写、堪らなく好きである。

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 唐突だが、仕事中にたまに勃起することがあった。
 ラヴェルの「ボレロ」ように単調な、工場のライン作業。
 その単純反復作業の永遠性、その限定された時間の中で、精神の高揚が波のように訪れたのか。
 だが、職場でほかの人に尋ねてみると、「あります、あります」と、けっこうみんな仕事中に勃起することがあるということが判明して、ちょっと安心した。

 大江の「われらの時代」再読。
 この作品には、勃起、女陰、という言葉がよく出てきて、読んでいてサーッと疾走していく爽快感がある。
「天皇の乗った車を爆破しよう。勃起するぜ!」
 アンラッキーな若者達。
「この女陰から脱出するんだ!」
 ばんばんばん! 時計が12時を打つ。ばんばんばん!