誰の理解も得られない婚約破棄の後も、きみはレギーネのことを一心に思っていたね。
ひょっとしたら、きみはレギーネを愛するために、結婚をしなかったんじゃないか?
文学史上稀に見る、きみの遺した膨大な日記。そして溢れる文字量の著作。その作品文中には、注釈の※印があるが、それはきみ自身による注釈で、その※の項へ行けば、本文と変わらぬような注釈が長々と書かれている。
きみは、きみ自身を補填するために、きみ自身の銃創に弾丸を詰め込むために、レギーネとの婚約を破棄したようにも見える。
もちろん彼女は、のちに元来そうあるべきだった元の婚約者と結婚した。だがきみは、きみによる婚約破棄後も、彼女に手紙を書いている。しかも、夫であるシュレーゲルに宛てて。
夫君の同意を得た上で、彼女に手紙を読んでほしかったきみは、この手紙をレギーネに渡すかどうかの判断は、夫君に委ねる、とも書いていた。
シュレーゲルは、未開封のまま、きみに送り返してきた。
きみのレギーネへの思いは、「反復」「おそれおののき」といった、きみの作品にも綴られている。まさにきみは、反復し、おそれおののきを血管に浮かび上がらせながら、手紙を書き、著作活動を続けていたように思える。
そしてキリスト教、つまり神と称せられるものときみ自身の関係も、のっぴきならない様相を呈してくる。愛と信仰── 神への信仰とレギーネへの愛が、絶対的に無関係ではないということについて、きみの中である不動の運動が活発に行われたと、きみの研究家たる識者たちは言っている。
わたしは識者でも何でもないから、こんな言葉でしかきみに訊けない。「神をほんとうに信じることができたなら、レギーネとの結婚生活にも踏み切ることができた」ということかい? もしそうだとしたら、わたしにもわかる気がするよ。
きみの中にある自己、その内在する自己とは、窮極のところ、神であるということは、きみが以前、言っていたね。
きみが「内面性の思想家」とか「実存主義の源流」とか言われているのも、きみがきみ自身に根ざした土中からさらに根を伸ばし、物事・事象を探り、著述していたことに由来すると思う。きみにとっての実存は、きみが日常生活の中で体験実感した中に真理、つまり神を発見すること── その神はきみに内在するものである以上、きみ自身と向き合うことの中に発見されるもの── であったはずだ。
きみは現代を「自己喪失の時代」と言っていた。人間、個人個人に内在する自己、すなわち神に、まるで向き合っていない時代、換言すれば、誰もが自分を信じていない時代ということだ。
それは、きみ自身も、そうだったのか?
きみは、自分が関係することは、自己と自己との関係だと言った。きみが関係したレギーネは、婚約破棄によって完全十全にきみときみとの関係になった。その関係は、きみ自身ときみに内在する神との、実在するレギーネ本人の介入さえも許さない、一対一の関係── きみが希求した関係だったはずだ。
そこできみが、どんな発見をし、きみ自身であるところのレギーネ、つまり神と、どう向き合ったのだろう? おそらく、向き合い続けた作業── それがきみにとっての、婚約破棄以降の著作だったのではないかとわたしは思う。
きみの、キリスト教への攻撃と、レギーネへの思い、「自己喪失」への危機感は、一本一本異なる形状をした矢だったけれど、きみの中では、きっと繋がっていたはずだ。
思うに、きみにとって、神は、大衆のものではなかったのだ。個々人、一人一人に内在するものが神の実体であった。すると、町なかの教会の屋根に聳える、あの十字架は、なんときみに嘘っぽく見えただろう!
きみは、自己喪失の人間を生む産婆役に、教会が成り下がっているとさえ思ったのか、キリスト教界に一石を投じようとした。いや、実際、投じたのだ。「キリスト教の修練」という著作は、アンチ・クリマクスという偽名だったね。きみはいわば、キリスト教の世界に、ほんとうのキリスト教を教えようとしたのだろう。
すごい、勇気ある行動だったよ。わたしは、きみがまったく、他人に思えない。
きみはどこまでも、自分の体験、実感を著作の形にしてこの世に表し、そして結局きみ自身と戦わなくてはならなかった。