言葉の紡ぐもの

 黒井千次のエッセイ「夜更けの風呂場」に、「『国鉄』からだといろんなイメージができたが、JRになって、ましてや『E電』なんて表示を駅構内で見ると、何か物語に繋がるものが浮かばなくなってしまった」というような文があった。
 … E電。あったなぁ。何だったんだろう、あれは。

 何年か前に図書館で借りた黒井千次。

 自分の労働体験をもとに「働くということ」を様々な視点から考察した、そのままのタイトル「働くということ── 実社会との出会い──」(講談社現代新書)は素晴らしい本で、かなり感銘を受けた。これは古本屋の店頭に、50円で売っていた。

 まじめな人柄が滲み出る文体とその内容で、現代作家でずっと気になる存在だった。
 ずっとサラリーマンをしていて、その傍らで執筆、文学賞をとったか何かして、作家になった人だと思う。

 現代作家といえば、山本一力という人も、いつかテレビで見たが、声がとても良かった。ずいぶん借金をして、何回も文学賞に応募したが落選を続け、でも受賞に至り、多額の借金も返せたとか。奥様に、感謝している、という言葉が印象的だった。

 いろんなドラマがある。

 ところで、黒井千次。その「夜更けの風呂場」は、自宅とその周辺半径150m以内の話の内容で、ショートショートのような短編集だったと思う。
「かかりつけの整体師みたいな人に施術されると、気持ち良くて寝てしまう。

 だが、目を覚ましてふと見ると、その整体師も座りながら私に手をあてて寝ているのだった」みたいな描写と、冒頭の「JR、E電」の話しか印象に残っていない。

 作家は、おそらく言葉で生きている。たしかに「国鉄」と「JR」とでは、重み、語感が全然違う。E電に至っては何が何だか分からない。そんなところから、何かドラマティックな話が始まりそうな「駅」という場所も、全く別の質をもったストーリーが出来上がっていく気がする。

 大江健三郎は、綿谷りささんとの対談で「作家には、これでなくてはならない、という言葉があるものです」というニュアンスのことを言っていた。(JR、E電という物理的名詞以外の意味でも)

 カタカナが多くなると、何やら語幹が軽くなる気がする。メールと手紙では全然違うし、ツイッターとかインスタナントカとか、そこから何か物語が、始まることは始まるけれど、何か従来(昭和的な?)のものとは決定的に違う質感になりそうだ。

 でも、言葉… 日常使う言葉など、変化して当然で、「現代用語の基礎知識」(これももう古い)は、旧人のために創刊されたようなものではなかったか。

 野球のストライクカウントの仕方が、「ボール」から始まるのには、今も違和感がある。
「ツースリー」が「スリーツー」。いつからこうなったのか。やっぱりストライクから始めてほしいと思ってしまう。

 言葉は記号だし、その記号から何かイメージがふくらんで、文の中で繋がっていく(発展していく)ことは、よくある。
 JRだろうがE電だろうが、きっとその場所に強い思いがあれば、そんな名称は付属的になって、肝心なものは伝わっていく… ように思えるのだが。