白土三平の「カムイ伝」

 これは何年も前に、「面白いよ」と友達に薦められて、たまたま古本屋にあったので買った。
 白土三平の「カムイ伝」1巻~24巻。何回も、読もうとトライしたが、挫折して、買ったはいいがずっと読んでいなかったマンガ。

 一昨日から読み始めて、すごいマンガだと痛感している。今まで、どうして読めなかったのか? 24巻まであると、早く読み進めてしまいたい、と思ったのと、登場人物が多く、顔もみんな似ているように見えて、読んでいるうちにわけがわからなくなったのが、その因だと思う。

 しかしこのマンガは、じっくり読むものだった。あわてて読んだり、途中途中に差し挿まれる白土さんの注釈(当時の時代背景の解説のようなもの)がまどろっこしい、と、丁寧に読まなかったわたしが悪かった。

 江戸時代というと、リサイクルが素晴らしく、ミュージシャンのデーモン小暮が「もし環境を良くしようとするなら江戸時代に戻るしかない」とか言っていたし、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の徳川さんの時代であるから、のんびりした、悠長な時代、というイメージがあった。

 だが、だが。自分の無知が恥ずかしい。えた・非人という言葉は知っていたが、あれほどの差別があるとは思わなかった。
 しかも、その差別は為政者が自分の腹を肥やすため、贅沢のため、地位を守るため、要するに自分の身を守るためだけに士農工商の身分階級をつくり、現代でいう税金を過剰に巻き上げ(武士でさえ実は貧乏な者が多かった)、下層にいる人々、民に、くるしい生活を強いていたという。

 インドのカースト制度が、日本にもあった! しかも江戸時代といえば、たった150年ほど前に終わった、近しい時代なのだった。
 農民に生まれたら終生農民、武士との関わり合いさえ許されず、非人に生まれれば死ぬまで非人。子どもが生まれたところで、喜べない。そんな時代が300年も続いたのだ。

 白土三平といえば、ついこないだ亡くなった人だ。「カムイ伝」は「外伝」などに形を変え、ずっと描き続けられたという。
 ずっと描き続け、まだ完結もしていないのではないか? 昭和42年、わたしが生まれた年に発刊されたコミックだから、55年間以上、ずっと描き続けたということになる。
 そのこだわり、 執心執着たるや、ものすごいものだ…。

 第1巻のあとがきには、
「先日若い人と話したが、社会主義だと、夢がなくなると思います、働かなくても衣食住が保障されるような社会では、みんな怠惰になるんじゃないでしょうか、という意見だった。でも、私はそうは思わない。平等な社会とは、云々」
 という、およそ子ども向けマンガとは思えない内容と同様の、読む者に考えさせられることを書いている。

 わたしはほんとうに不勉強で、部落問題とか、差別の問題が、今もこの国の地域地域にあることについて、詳しく知らない。
 が、一見、昔のような階級社会、その構造が今はなくなったように見えても、人の心理には、人より優位に立ちたいとか、ために蔑むべきものを欲するとかいった「階級を生み出したい・差別を必要としたい」欲求があるのではないかと思う。

 権力を握った人たちも、武士も農民も非人も、同じ人間である。が、同じでなくさせたい、同じではイヤだ、というような心動は、それこそ万人の人間の持つ、摩訶不思議な心の働きのように思う。
 その心動を、つい150年前まで、実にうまく利用し、権力を握った人たちが人民を管理し、身分階級を定めていた── 甘い汁を吸うために… ように、わたしには思える。

 白土三平は、人間による、人間のための社会とは、一体どうしたら可能であるのか、ということを、生涯、希求し続けたのではないだろうか。
 死ぬまで描き続けた、その執念には、「今も何も変わっていない」があったのではないか。

 昭和40年頃といえば、社会運動も今よりよほど盛んで、政治に対しても多くの人が関心を寄せていただろう。この国を、どうしていくかという意識が、よほど高かったように思われる。
 白土さんは、晩年、どんな気持ちで「現代社会」を見ていたんだろう。

 根本的構造は変わらない。みんな、あきらめることに慣れ切っている。
 ごまかされ、ごまかし、たぬきの化け合いの中で、無関心を装い、無関心そのものになって、ただ流されているだけだ── とか?