なぜ忘れられたような作家たちを

 語弊はあるが、キルケゴール、椎名麟三。
 大江健三郎、モンテーニュ、荘子は、少なくとも投稿小説サイトで、あまりお目に掛らない。
 荘子と大江は、読まれ続けていると信じたいが…。

 ぼくが彼らを推したいのは、このまま忘れ去られてほしくない作家、思想家たちだからだ。
 キルケゴールは、自分の家系が40歳だか何歳かで皆死んでいて、「自分もその歳になったら死ぬ」と思い込み、それまでに何とかして自分の思想を作品化しようとし、実際何作もの出版をした。

 彼は親がお金持ちだったため、生涯労働と無縁の生涯を送り、その遺産も自分の死ぬ頃にはちょうどなくなる計算だったが、それ以上に長生きしてしまった。
 だが、何だかんだと持ちこたえ、自然死(病死だったと思うが)する頃、ちょうどその財産が底をついたという。

 まさに自分が死ぬまでに書き切ろうとした言葉に埋まったその作品は、生き急ぎ、書き急いだ感もあるけれど、哲学というもの、考える仕方、ものの見方を、彼自身の真実の中に埋め込み、それをしたたかに爆発させるように書いていると思う。
 ぼくは、彼の作品に、「生きる」ということの真実をみる。

 椎名と大江は、どこまでも誠実な作家。「言葉は愛である」と椎名は言い、「人間は言葉で、論理で考えている」と大江は言い、言葉というものに異常な執着をみせる。この二人の日本人作家は、どうしても忘れ去られてほしくない。

 荘子は、あの大きさ、巨大さだ。空気に同化したように、この世を見渡す荘子の世界は、心を病む人に、大きな慰安を与えるだろう。

 モンテーニュは、上記した人たちと、全く違った位置にある。哲学者や思想家、作家たちが懸命に、あれやこれやと額に汗して書いたであろう姿の中で、モンテーニュは平然としている。
 近所の酒屋のおじさんが、ちょっと難しい昔話を語るように「エセー」という存在がある。

 だが、フローベールが、
「じっくり、エセーをお読みなさい。それはきっと、あなたの心を鎮めてくれますよ。面白半分でなしに、また学者ぶるでもなしに、ひたすら、生きるために、エセーをお読みなさい。端から端まで読み終わったら、またもう一遍、お読みなさい」
 と言っているように、ホッとする本、あって微笑める本なのだ。

 モンテーニュそのものが、この本であり、愛すべき存在に思える。
 この五人のことは、とにかく書き続けたい。