母は「鬱病」のケがあって、「どれがほんとうの自分だか、わからない」と気落ちした感じで言っていた時があった。
ぼくが小学生のとき、掘り炬燵にちょこんと入って、ぼくを見て薄く笑いながら言っていた。
「どれも、ほんとうの自分なんじゃない?」と、ぼくは答えていたのを覚えている。どんな自分も、みんな、自分なんじゃないかな。ぼくは笑って言っていた。
しかし。
『コレ!!』がほんとうの自分、なんて、ない!と、わかっていたつもりになっていたけれど、実感としてわかるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。
去年かおととしか。いや、わからない。
その母は、今、認知症が進行中。
10秒前に話したことを、忘れることができている。
そのうち、ぼくという子どもがいたことも、忘れられてしまうのではないか、とおもう。
ただ、こないだ実家に行った時、母の天然ボケ(ほんとに、天然の、ボケなのだ)に、笑えてしまった。悲しいはずなのだが、笑えたのだ。
茶の間。母と兄とぼくがいた。兄に向かって母が、「健康がいちばんよねぇ。仕事、休んだことなんて、ないでしょ?」と訊く。
「いや、ありますよ。(ぼくの兄は、いつも敬語で話す。弟の、ぼくに対しても。)身体は、ちゃんと、衰えるものですから。」兄は、笑って応える。
「そうかい、そうだよねぇ。」母は納得する。
「ミツルも元気だよねぇ。」ぼくに向かって母が言う。
「うん、ほんとに、おかげさまで(笑)、元気だね。」ぼくが応える。
「ほんとに健康がイチバン。○(兄の名)も、仕事休んだことないんでしょ?」兄に向かって母が訊く。
「いえ、ありますよ。トシをとれば、身体が衰えるものですから。」兄は、笑って答える。
話題が、兄の口髭に変わる。
「いつから伸ばしてるの?」
「3年ですかねー。」
「いつもあるから、ねぇ。これ、切ったら、驚くわよ。」
「いやー、そんな驚かないと思いますよ。自分が思っているほど、他人は気づきませんから。」兄は微笑みながら応える。
「いやぁ、わかるわよぉ。」
それから数秒後、「いつから髭、伸ばしてるの?」となる。
そして同じような、いや、同じだ、同じ会話が繰り返される。兄は我慢強い。
ぼくは、笑っていた。というのも、母には病的な陰鬱さが、微塵にも感じられなかったから。
ほんとに母は笑っていた。嬉しそうに、兄との会話を、繰り返していたのだ、ぼくと兄の、交互を見ながら。
兄嫁も、「お義母さん、ボケてるのに堂々としてるのが笑えちゃうよねー」と言っていたが、実に、きれいに、ボケている、という感じが、否応無くぼくにも感じられたのだった。
だが今日、ぼくは帰宅前にスーパーに買い物に行ったのだ。レジで、ぼくの前にいた客は、老婆だった。
精算を終え、買った物を袋に入れる作業をする台にぼくが行くと、目の前には同じ老婆がいた。
老婆が買い物カゴを回転させた時、ぼくの買い物カゴに当たりそうになったので、ぼくは自分の買い物カゴをよけた。
すると、「ごめんねぇ、もう、脳が、ボケちゃってるから…」
そう言いながら、台に頭が当たりそうなほどに曲がった腰をしながら、レジでもらった釣銭を財布に入れようとしていた。
ぼくは、何と返していいか、わからなかった。レジ嬢とのやりとりで、耳が遠そうなのは、知っていた。
ぼくは、涙ぐみそうになっていた。
ぼくは、何もできなかった。何もしなかった。
レジ嬢からもらった小さなシールを財布に入れようとして、時間がかかっていた。
「このシール、集めたら、鍋が安く買えるんですよ」と、知っていたかもしれないが、教えたくなった。
でも、耳元でないと、声は届きそうもない。なんだか、キツい時間だった。ぼくは早く帰って、夕食の用意に取り掛かりたくもあった。
お婆ちゃん、ボケてなんかないよ、ひとりで買い物できてるじゃん。
そう、言いたかったのだが。
大袈裟にとらえているのかもしれないが、ぼくは、無力であることを、全身で感じることしかできなかった。
老い、というもの?
いや、目の前にいた、お婆ちゃんに対してだ。