小旅行(二)

 さて、歩いて30分ほどの所にある某スーパーホテルから帰還した。
 一泊ふたりで5850円(奈良県民ということで150円だか割引された)、朝食は抜き。

 4時にチェックイン、天然温泉に入って、駅前のスーパーへ夕食の買い出しに行って…
 テレビを見ながら食べて、ビールなんかも飲んで、また温泉に入り…。
 ビジネスの人やら、学生っぽい人達やら友達どうしやらカップルやら、けっこう客がいた。

 今回、何年ぶりかのホテル宿泊で感動したのは、部屋にある小さな冷蔵庫。
 音が鳴って、夜中など、うるさいなぁと思ったものだったが、ここの冷蔵庫は全く音がしなかった。
「静音」の冷蔵庫で、これは何気に素晴らしいと思った。

 また、フロントやスタッフも感じがよかった。
 もちろん仕事であるから、多少のムリさはあるにしても、「こんにちは」とか気軽そうに声を掛けてくれる。
 こちらも「こんにちは」と言える。
 悪いことはできないなと思う。

 唯一不便だったのが喫煙所で、4F(温泉もフロントも食事処も、すべて4Fから始まっている)までエレベーターで下りていかねばならなかった。
 自分の部屋でタバコが吸えない不自由さを、初めて知った。
 全室禁煙は、仕方のない時代の流れなのだろうけれど…

 ホテルは、「エコ」を謳っていた。もちろん地球環境に対してだ。
 トイレットペーパーは再生紙で、とか、備え付けの歯ブラシを使わなかったら(たぶんゴミを出さないから?)お菓子と交換とか。
 しかし… そういうアピールをしなくても、それが自然に行なわれるように、なってほしいと思った。
 エコ=イイコト=シテマスヨ、は、いやらしい。

 それに、そういうことは利用客が、些細なことから感じられるものだし… 素泊まりだったから分からないけれど、朝食に使う容器がどうのとかプラスチックがどうのとか… 「エコ」をわざわざPRしなくても、それが自然のことであってほしいと思う。
 また、世代差?のようなものも感じた。
 喫煙室に入る時、先客がいたら、昭和的雰囲気のある人は、何となくお辞儀、ちょっと頭をさげて入ってきたりする。
 私もそうだ。たとえ一時であれ、その場に一緒にいることになるのだから。

 だが、平成的な人は、何やらスマホばかりをいじって、タバコを吸い終えてもまだ友達としゃべり合っていたりして、喫煙室が「密」になることにも構わないような感じ。
 もちろんそういう人ばかりではないけれど、割合としてそういう人が多くなっている気もするし、またそういう人が目立ってしまう。

 昔の人は、コミュニケーションが自然にできるような人が多かったように思える。
 私の母などは、旅行中、バスでたまたま隣りに座った同い年くらいの人に、「~ですねえ」とか話し掛け、相手もそれが自然であるように応じて、ふたりで何やら打ち解けて(?)、会話を続けていたりした。

 今の若い人は、などと言える私も昔の人になっているのだが、特に今はコロナの影響もあって「非接触」、知らん人とは目も合わせない、「自分だけの結界」に入って、公共の場を占有しているかのような感じが、以前より幅を利かせている気がする。

 携帯電話、メール、スマホの存在が大きいのだけれど、それだけではないように思える。
「世代が違うでしょ」「あんたと私は違うでしょ」を当然として、あまりにあっけらかんと、片づけられてしまう… 奇妙なつめたさのような、ドライさが、空気になってきているような…
 かく云う私にも、そういうところがあると思うけれど。
 でも、何かがほんとに違うような…。
 まあ、とにかく、個人差、個人差。

 話を戻せば、今回泊ったホテル、「実力主義」的社風もあるのか、
「良い接客態度をし」「それがお客さんに好評だったスタッフには」「イイこと(寸志が出るとか優秀のレッテルが貼られるとか)がありますよ」
 というような雰囲気が、これはほんとに微妙な空気なのだけど、感じられた。

 それに通じると思われる、具体的なこともあった。
 要するに、自然、地球環境をどうのこうのと言っている企業が、まったく自然でないというか… 長くなって申し訳ない、最後に、以下のことを書いて、言いたかったことを終えます。

 たまたま部屋で見ていたBSの番組で、イタリアの溶岩、岩だらけでできた土地で、ブドウを育てるひとりのおじさんのことを取り上げていた。
 ブドウは、乾燥した、岩だらけのとんでもない環境でも、だからこそ、美味しく育つのだという。
 広大な、しかし溶岩ばかりの不毛の土地、ほかに何の植物も育たないような土地。

 だが、そこでブドウは育つ。
 そして家族、近所の人たちと一緒に収穫し、食べたり、足で踏んでワインをつくったりする。
 一方で、「そのように昔からのやり方でやってきた文化を大切にしよう」とする人もあった。
 だが、その番組で主役的に取り上げられていたおじさんは、まったく肩肘を張っていない。

 いつも飲んだくれているような感じさえする、あまりテレビ的に「絵にならない」ようなおじさんで、文化なんか知ったこっちゃない、という風情であった。
 ただオレは、こうしているだけだ、オヤジから継いできたものを、継いでいるだけだ。
 オレは好きなんだよ、この土地が、この仕事が、というだけのようであった。

 このおじさんは、ホンモノだと思った。
 地球環境とか、文化遺産とか、そんなものは、オレには関係ねえ。
 オレは、オレのしごとをしているんだよ── そんな仕方で、彼は結果的に自然に抗わず、もともとそこにあった溶岩、無数の岩と岩の間から健気に芽を出すブドウを育て── 生活をしてきた、というふうだった。

 人間は、義務で生きているのではない。
 義務によって生かされているのでもない。
 自然に、… ああ、人間、ひとりひとりが、おのが自然に生き… 労働も、関係も、上司とか成績とか客の評価とか、そんなところから自分を生かすのでなく… すべては自分の必然、その必然は世界の必然であることを自覚し… これがイイだのこれがワルイだのにとらわれず…

 人間自身が、人間自身が、おのが自然を世界の必然として、初めて…
 他然としてあるかのような自然を、わが身を大切にするように、だからほんとうに、大切にできるのではないか、と…。