もうだいぶ前のことだけど、「出会い系で出会った男女数名が車中で練炭自殺」というニュースをテレビで見た。
たまたま昼勤の週で、私は家人と夕食を摂っていた。
テレビが伝えるには、「ひとりの女性は、(まだ幼い)子どももいて、その子に対する遺書も見つかった」ということだった。
テレビはその遺書の内容も伝えていた。
「ごめんね、○○ちゃん(子どもの名前)」というような内容だった。
私の中で、何かがチギレた。
「… 何なんだ。… 人は、死ぬために出会うわけじゃないだろう。生きるために、出会うんだ。」
突如怒り始めた私は、家人にこう言っていた。
「こういうのだけは、許せない。」
だが、あれから数ヵ月経って、見方が変わった。
怒りより、かなしみを、感じるようになった。
若い母親を、自殺まで追い詰めたもの、それは分からない。
ただ、かなしみだけを感じた。
私は、ひとつの小説を書きたくなった。
出会い系サイトで知り合った男女4人が、車の中で練炭を燃やし、睡眠薬を飲み、無理心中を図る。
だが主人公の男は、すんでのところで思いとどまるのだ。他の3人はもう眠り、練炭は燃え続けている。
そして埼玉の山中で、彼は車の中から、夜空に映える丸い月を見たのだ。
月の引力に導かれるように、彼は車を出る。窓に目張りしたガムテープをはがしてだ。
そして、助けを求めて、みんなを助けようと願って、曲がりくねったアスファルトを歩き始めるのだ。
私はこの物語で、月と地球が引力で浮かび合っていることを、人と人との関係に結びつけて、訴えたかった。
だがこの作品を書こうとした時、私の中では、まだ「怒り」が大きく占めていた。
テレビのニュースを見て、まもない頃だったから。
さらには、「死ぬために会う」という人たちの気持ちが、私には理解できなかった。理解したくなかった。
その若い母親に話を聞きたかった。どんな気持ちで子どもを思い、どんな気持ちで、死ぬために見ず知らずの人と一緒に車の中にいたのか。
でも、その母親は死んでしまっていて、もう話も聞けないのだった。
そして、人と人とのつながりを、どこかで「美化」しようとする自分も、よくわからなくなった。
自分にとって、「人は、何なのか。」
「月を見て、生きようと思った。」
そんな結末が絶対的に想像できた時点で、この作品は終わっていたのかもしれない。