「フリースクール」であった。
ロスアンゼルスから国内線に飛行機を乗り換えて、1時間でアルバカーキへ着く。
そこからバスに2時間乗って終点で降りた時は、すでに辺りは暗くなっていた。
ほんとにここでいいのだろうか。
どうやって使っていいか分からない公衆電話。
まばらにいる人たち。使い方を尋ねて、目的地であるサンタフェ・コミュニティ・スクールへ電話をかける。
「メアリーがそっちへ向かっている」
礼を言って電話を切ろうとした時、後ろにそのメアリーが立っていた。
「Mitsuru?」「Yes, yes.」
あぁ、よかった。
19歳のとき、「学校に行かない進学ガイド」という雑誌を読んで、そこに載っていたフリースクールのひとつが、ここだった。
私は手紙を書き、返事をもらい、電話で話し、実際に行くことになったのだ。
ひとりで、異国へ行ってみたかった。
そしてどうせ行くなら、自分の中にあるテーマに沿った所がいい。
私は「脱学校の会」をやっていたし、公教育に疑問をもっていた。
アメリカにも、同じように考え、活動している人と場所がある。
つながりを求めて、行ったのだった。
スクールの敷地内に、トレーラーが点在している。「トレーラーハウス」。
もう動かなくなったクルマのトレーラーの中を改造して、キッチンやら寝室をつくり、そこで生活をするのだ。
3、4家族がいたのだろうか。
私は敷地内にある手づくりのプレハブに住む。
2週間の滞在だった。
子ども達に、パブリック・スクールには行っていないの?と訊くと、ホームスクーリングをしている、という答が返ってくる。
同じ地域で通ってくる子どももいたけれど、規模はそんなに大きくない。
コミュティ・スクール内に住む家族の子どもが主だった。
6歳位から、17歳位まで、6名位だったか、全員で。
毎日私は子ども達と遊び、ストーブにくべるマキを割ってばかりいた。
砂漠気候なので、昼間は汗をかくほど暑く、夜はとても寒くなった。
結論から言って、私は英語は、全然ダメである。
よく電話で話し、迷子にならずに帰国できたものだと思う。
だから、つながりを求めて行ったものの、コミュニケーションがほとんどできなかった。
もうあれから20年近く経って、残っているのは、
あの太陽の大きさと、月の大きさである。
そして、そこで生きていた、人たちの姿勢である。
今も、彼らが元気でいてくれたなら、このブッシュ政権下にある自分の国を、憂いているに違いない。
そう確固として想像ができる。
コミューン、生活共同体、とでもいうのか、そういうかたちは、1970年前後に、日本でもあったとかなかったとか。
ベトナム戦争やら学生運動やら、どうも、何かあったような時代。
今もコミューンはあるはずだが、どうなのだろう。
私は実は、パソコンが嫌い、もっと言えばインターネットが嫌いなのだと思う。
もちろん、この機械を通して、どうなっているのか分からない電話線を通して、知らない人と知り合えて、絶版となっているような手に入らない本を買えるのは嬉しい。
人と知り合えることは、ほんとうに嬉しい。だが、そこには、景色が見えない。
チャットなんかにしても、そこは自分の部屋で、パソコンの画面なのだ。
ただ根本的に感じるのは、あやうい、もろいものの上に、生活が成り立っている、というのか…。
喫茶店で、なんとなくみんなと過ごした時間、コーヒーカップの音やドアのベルの音、同じテーブルで、その空気を吸っていた仲間。
何か大きなものと戦っていた、サンタフェの人たち。
トレーラーハウスの向こうの地平線のような所から、とてつもなく綺麗な朝焼けと、そこで生活をしていた人たち。
ほんとに、みんなどうしているのだろうか。