新しい、自動車工場に、ぼくは勤め始めた。
その出勤初日、電車かバスが遅れて、いきなりぼくは遅刻をした。
工場の門に着き、守衛に道筋を聞き、いわれた通り、だだっ広い工場敷地内の歩道をまっすぐ歩いていると、左側にその建物があった。中では、朝礼が行なわれていた。
ぼくひとり、遅れて入っていくと、場内、すでに「今日からここで働く人たち」の自己紹介が始まっていた。
ぼくが自己紹介するはずの時間は、もう終わっていて、朝礼じたいが、そろそろ終わろうとしていた。
ぼくが配属される職場の人たちや、特に上司が、「まったくしょうがないヤツが来たもんだ」と、あきれたような視線でぼくを見た。
その日の仕事は、それで終わったようだった。「朝礼すること」、それだけが、その日の仕事だったのだ。
帰路、ぼくはまた電車に乗り、着いて、駅員にキップを渡した。
駅員は、そのぼくの渡したキップ、回数券だった、を手にまじまじと見て、何か不服そうだった。このキップ、無効だ、とでもいうようなのだった。
ぼくは逆上した、冗談じゃない、チャンとした回数券だ。
だが駅員は、これは何か違う、と言い張るのだ。まるで期限がきれて無効になった回数券を、その日にちのハンコの部分をうまく作り変えて、おまえ、乗ってきただろう、とでも言いたげなのだ。
で、ぼくは駅長室に入っていった。そして強く主張した。
「この駅員、おかしいぞ。まるでオレを疑ってる。オレは犯人扱いされている。名誉キソンだ、名誉キソンだ。」
ぼくの激情もむなしく、駅長らしき男は、まぁまぁ、という感じでニヤニヤしているだけだった。
そして、なぜか駅長室の中にある横並びのステンレス、折りたたみの椅子の上に、ぼくの職場の上司などが座って、こちらを見ているのだ。
「おまえ、どうしょうもないヤツだな、やっぱり。」と、彼らは言いたげに、こっちを見ていた。
駅長らしき男は、改札にいるその駅員を呼び、事務机の前の椅子に座らせ、この回数券は本物だよ、なんでそんなに強く疑ったんだ、と、なだめるように実にやさしく説きはじめた。
すみません、昨日の会議で、そういう問題、あったじゃないですか。これから、そうやっていこう、というふうに、決まったじゃないですか。だから、僕は、そうやったんです…
駅員は、涙ながらに、まるで懺悔でもしているようだった。実直な、まじめな男なのだ。
だが、それを見ていた、ぼくの職場の上司たちは、「ほら、おまえのせいなんだよ」というふうに、ぼくを思っているようだった。
おまえは、まわりに、トラブルを起こすんだ。迷惑なんだよ。おまえは、そういう人間なんだ、おまえにそのつもりがなくてもな。
無表情に、そう思っているようだった。
ぼくは駅長室を出て、改札をやっと出て、路面電車に乗り換えた。
一両だけの、長方形のハコの中。ぼくが後ろのほうに座ると、一番後ろに座っていた老婆が、話しかけてきた。客は、他にいなかった。
「これから焼肉でも食べたいのだけど、ひとりじゃつまらないから、あなた、一緒に食べてくれないか。」
老婆は、すみませんね、というような照れた微笑をしながら、そんなようなことを言っていた。
路面電車は、動き出していた。ぼくは、駅長室のカサ立てに、カサを忘れてきたのを思い出していた。
ぼくは老婆に、ええ、いいですよ、とでも答えていたのだろうか。老婆の足元には、大きなスーパーのレジ袋がふたつあった。買い出しに行って、これから帰るところらしい。
ぼくはただ、忘れてきたカサが、気になっていた。
これから下車して、あの駅長室へ向かうことを想像したら、途中で上司たちと会いそうなので、いやだなあと、ぼんやり考えていた。
だが、あのカサは、友達から借りっぱなしのカサである。半透明の、白い、どこにでも売っているようなビニール傘だった。
どこかのコンビニで、同じようなカサを買って、返せばいいか。しかし、あのカサは、あの友達のカサなんだ。
路面電車が、どこに向かっているのか、わからなかった。ただ、とにかく走り続けていて、外は、どんより暗い曇り空だった。夢の色のせいか、夕闇が迫っていたせいか。
ぼくは、忘れたカサのことが気になって、仕方なかった。