顔は、たいていその人の内面から浮き出る。どんなふうな時間を多く生きて来たか、どんなふうに物事に向かい、対処してきたか、というような様子も、その顔に浮き出るように思う。

「刻まれる」のか、「引き寄せの法則」みたいにそうなるのか、それは分からないが、ともかく顔というのは、現在過去未来の一つの表象と思われる。

 知らない子どもの顔を見て、あ、こいつはこんな大人になるな、とか、老人の顔を見て、あ、この人はこんなふうに歳を取ってきたな、とか。

 もちろん生まれ持っての位置、形がある。これはもう決まっているもので、これについて云々いっても始まらない。ただ、そこに備わったもの、動かし難い眉毛や唇の位置、それ以上に、印象として僕に強く入ってくるものがある。

 ほんとに、最近の女性はつまらない。昔からそうだったとしても、化粧をして、みんな同じ顔になっているように見える。確かに可愛いのかもしれない。綺麗かもしれない、でもそれだけなのだ。

 薄い化粧で、地顔が見えている人が好きだ。ブスだとか美人だとかは、見る者が勝手に判断するんだから、そんなに気にしなくていいと思う。あなたはあなたであってくれれば、べつにコンプレックスも優越感も過剰に抱かず、できればそのままであってくれれば、もう僕は満足する。

 読心術、という言葉があるが、あれは心を読んでいるのでなく、その相手の印象(顔、雰囲気、そこから想像する)から、あたかも相手の心を知ったように話す術であって、心なんか読めるわけがない。

 その想像力、誰でも持っている力だ、想像力をほぼ絶対化するように自分で信じ込み、いかにも堂々と、占い師みたいに何だかんだと言い出すから、聞いている方も、ああそうかなぁ、お金も払っているし、信じた方がトクかしら、って無意識に損得勘定をして、どうもありがとうございました、とその場を去る。

 占い師も、観相学者も、詐欺師のような商売である。

 運命というのは、ある。でもそれは、あるていど長く生きれば自分の運命なんてイヤでも知れるし、いちいち他人に、ましてお金を払ってまで教えてもらうものでもない。

 妙な宗教に染まって、身も心も「今までの自分と違う」、もう不幸にならない、なんて信じ込める人がいる。その信じた心があなたを救っているのであって、その対象は、べつにサンダルでも下駄でもいいのだ。便器だっていい。

 信じて、それを疑わない人は、それで本人が幸せならいいのだ。あくまでもそれは「自分限定」である。自分がそうだからといって、他人にそれを信じ込ませようとする、「絶対化」して「一神教」になる、だから人にススメるんだろうが、恐ろしいことだ。

 考えることを放棄してはならない。信心は、思考をつぶす。たたでさえ自己喪失者が多いのに(自己について何も顧みない、深慮思考しない者は自己喪失者と同じだ)、それ以上喪失してどうする。

「すべてを捨てて、旅に出たんだ。でも、何も変わらなかったよ」

「そりゃそうだろう、きみは自分と一緒に行ったんだから」

 こんな自分はイヤだ、と、いくら思ってみたところで。

 嫌いは、好きの裏返し。

 答は、… 探し求め、見つからない、見つからないと嘆く、その己の探し物、そいつは自分の内にある。

 他のものは、まさに参考、それを参照して、自分が考えるという、山道の、「←頂上まであと500m 休憩所→」の朽ちた木札の道標みたいなもので、参考・目安以上のものではないだろう。

 自分は、その看板のために生きてきたのではない。自分自身・自心が、看板そのものになることもあり得ない。

 絶対化してはならない。この心身、手足は、乗っ取られてはならない。

 他物の、狂信者になってはならない。

 信じることが狂気に繋がるというのなら、自分の中におさめておこう。

 この心身にしか宿らぬ、神の如きもの、一体一体、一つ一つの存在にしか宿らぬ、それを。