先日、家人と話をした。
「死体」という言葉が出た。
ぼくが死んだら、火葬も埋葬もせずに、海にポーンと投げ捨ててくれたら、それを望む、みたいな話。
お腹すかせたサメさんに食われたら嬉しいし、腐敗してバクテリアの如きものになって、クラゲさんなんかに食われたら嬉しい。
具体的に想像もした。
でもそれは「死体遺棄」という罪になるとか。
死体。ぼくは、その話をしながら、自分の手を見つめた。5本ある指。手のひらもある。
「これ、あなたの死体ですよ。」
検死官が、まだ生きている(今だ)ぼくの「体」にそう言っても、
「ああ、そうですか。そうですね、これは、ぼくの死体ですね。」
と、答えられそうな気がした。
ぼくの体は、死んでも生きてもいないような気がするからだ。
いや、もちろん生きているのだ。
でも、これはやはり、「借り物」であるのだ。どこから借りたのか知らない。
ぼくはたまたま、この「体」に、いるだけなのだ。
「自分のモノだ」と倣岸になるより、「借りてる体」と思ったほうが、ぼくにはシックリくる。
借り物だからこそ、大切にしたいと思う。