紙一重

 朝、目が覚めたところで、どうということはない。
 いつのまにか夜が、しらじら明けていて、仕方なく私は起きるだけである。

 だが、仕方がないというわけでもないのが実のところで、非常に積極的に床から身を起こしている。
「仕方がない」と「仕方のないわけでない」の間に常にあり続ける私自身の、生来からといっていい、悩ましい、重い問題なのだ。

 私はべつに、嬉々として仕事に出かけるわけでない。
 といって、悲嘆して出かけるわけでもなく、ただ、そのふたつの気持ちを肉体に引きずり、または気持ちに肉体が引きずられ、ずるずると朝の、まず何よりの自分の遂げるべく責務と考えるところの、「仕事場へ着く」という目的を果たす。

 朝の私は、出社時間にまにあうために生きているが如きである。
 まにあわなくったって、死にはしないことは知っているのだが…

 仕事場に着けば、もう知らない。
 ただ身体を動かし、頭の中は他のことを妄想し、休憩時間には人と何か話し、笑ったりして、そのうち8時間位が必ず過ぎる。

 仕事場で過ぎる時間ほど、ありがたい時間はない。
 着実に日が暮れ、夜になり、さらに深まれば私は自分が死ぬことに囚われている。

 いつか、死ぬのだ。だが、明日も自分は生きていると考えている。
 そうして、朝に向かっていく時間、時計の進みにわけもなく焦りだしている。

 いっそ、もう死んでもいいのにと思う。
 だのに、明日のことを考え、昨日までのことを考え、そうやってずっと生きるだろうことも考えている。
 そして一体何を考えているのか、よくわからない。

 あの震災以来、仕事場は操業停止が続いている。
 いよいよ来月の給与、それから先のことへ気を捕われれば、何やら不安を覚えても仕方がない。

 しかし全く、まるで平常のように稼働の日々が続いても、私には不安になれる自信があるのだ。