介護の仕事の頃(2)職場にて

 世界のリーディング企業たる某自動車工場でも、こういうことがあった ── 多数の人が「こうして作業して下さい」と言っているのに、そのやり方で作業をせず、いわば自分勝手に作業をする、という人の存在、そこから起こる様々な事象が。
 エンジンの組み付けで、人の命に直結する大事な仕事であったのに、これでいいのかと私は相当に悩んでしまった。その人は、裏番(交代制勤務だったので、例えばこちらが早出の時、遅出の出勤になる人達を「裏番」と呼んでいた)の上司であった。

 私の持ち場の作業は、チョッとでもホコリが付くとエンジンに支障を来たす、重要な部分であることは、親しくなった多くの先輩たちから教わっていた。そのような大きな責任を伴う場所を任されたことに、私は相応の責任感とやり甲斐を感じていたのだったが。

 いつ・誰がその作業をしたかというのは、製造番号等で分かるようになっていたから、べつにこちらが不良品を出さなければいいのだ、と気楽に考えることができなかった。だってお客様は大金を払ってこのクルマを買うわけで、せっかくの楽しみをガッカリさせたくない。

 それに工場でいつ・誰が作業したかなんて、お客さんには関係がないことで、あくまでも「不良品を出さない」ことが、従業員の一致する目的である筈だと信じていたからだった。
 結局、裏番は裏番、こちらはこちらのやり方でやっていたのだが…

 これと同じような現象は、現在の私の勤めである介護の現場にもある。
 根元をたどれば、人はひとりひとり違う、というところに行き着く。おむつ交換、移乗(車椅子からベッドに移すなど)の仕方ひとつ取っても、皆、やり方が違うのだ。必竟、「この自分のやり方でホントウにいいのか」という疑問が生じることになる。

 だが、結局のところ、介護される立場の人の心持ちに立って、こちらとしては作業をするしかないのだ。そして人の立場に立つということは、それ自体に恣意、自分の思い込みの領域と無関係ではあり得ない。
 私にとって2つめの介護施設での就労である。前職場では、入居者さんとのコミュニケーションが重んじられている傾向があって、その点は私は一定の評価(!)をされていたようだった。
 1日中、ほとんど喋らず、黙って座っている認知症の方々に対して、話し掛け、会話をした方がよろしかろうと思い、そうしていた。

 だが、今回の施設では、ほとんどスタッフは入居者さんに話し掛けない。むしろ、スタッフどうしのコミュニケーションを重んじているかのようである。まあ、私は新人だし、郷に入れば郷に従え、でしばらく行くしかないのだが。
 とにかく覚えることが沢山ある。正誤表はない。周囲に合わせつつ、自分が自分として、よかれと思うことをやっていくことは、どんな職場にも通ずることのようである。