昨夜、寝床の中で、ある想念が浮かんだ。
快楽についてのこと。信じるとは、ということ。上があり下があり、左右があるというのは、どういうことか、ということ。
ふだんから、ぼんやり、このことは気になっていた。それが、寝床の中ではリアルに、あ、AとBがある、これはこうだからこうなんだ、というふうに、妙な現実味、そうだ、ここから考えて行けば、何か答が、光が見えてくる、そうなりそうな気配を感じていた。
起きて、パソコンに向かおうか。そう思ったが、腹が減ったのでパンを焼いて食べ、そのまま眠ってしまった。
こういうことが、よくある。
寝床の中では、何かきっかけが与えられる。そいつが、むくむくと明確な輪郭をもって、この眼の中に見えてくる。確かに、それは動いている。生きている。ツヤツヤした、光さえ帯びて(何がそれを照らしているのか?)、生きて、そこから外へ出たがっている。
外へ。
つまり、体現、「この内でなく、あなただけが見える世界ではなく、ここでない、外へ出して」と言っている、訴えているように見える。
それをそのままにして、朝目が覚めれば、もうそれはいないも同然になる。何がそんなに明確だったのか、何が外へ出たがっていたのか、もう分からない。
あの時、もし起きて、外へ出してやろうとしたら、彼は喜んで出てきてくれたろうか。
道筋を整え、相応しい言葉で、私は彼を迎え入れることができたろうか。
その仕方が分からず、困りに困りながら朝を迎え── 時間ばかりが過ぎ、何を考えていたのかも知れず、朝になったことを無念に思うだけで終わるだろうか。
あの時起きたら、納得した、気持ちのいい朝を迎えられたろうか。
ただ寝ていただけでない、身体が喜ぶだけでない、精神の充溢!
それは、しばらく続くだろう。せいせいと、外を歩ける、気持ち良く外を歩けるほどに。
そしてまた「外」の些細事に、がっかりしたり落ち込んだりする時間が続くのだ。
ただ言えるのは──そのように落ち込んだ時、それが深ければ深いほど、真っ暗であればあるほどに、そいつが外へ出たがる、ということだ。