いっさいは、…

 ここのところ、どうも気が晴れない。原因は分かっている。納得して書けている文章が少ない。書きながら、引っ張らっれて、ただAのことを考えていたのにいきなりDが出てくる… それまで思いも寄らぬ、無かったようなDが出てくる! そんな発見、驚き。そこからまたそのDがEなりFになり、と続かざるをえない、あるようでないような道筋、どこへ行くのか分からないまま進み始める、そのとき心はウキウキと踊っている、そんな時間が少なくなった。

 あることはある。だがそれを追求できない、これは暑さのせいだとしてしまえる。身体的、具体的、事実的なものは便利だ、そのせいにしてしまえる!

 実際、暑いのだ。この部屋にはクーラーがない。陽も入ってくる。扇風機は生ぬるい風を出すだけで、あればまだマシだろうが、押し入れから出す気になれない。

 窓から入ってくる自然の風がいちばんいいが、その風もない。

 部屋は少しは片づいた。しかしやはり本の多さ、もらった手紙、捨てきれないものが多い。いっそ、何もなかったように、もともとこれはなかったもののように、可燃ごみとして捨てられたらいいのだが。何でもない、ごみ!

 もし自分がこの部屋で、死体のように倒れていたら? それを発見した他人は、ここに散らばる本や手紙の入ったダンボールのように、それを見るだろう。ただ人間の形をしているので、驚く。救急車を呼ぶ。しばらく、いやな気持ちに苛まれるかもしれないが、それ以上の意味はない。

 僕は、知らない他人にとって単なる物である。まして死んでおれば、何も主張もしない。ただあるだけの物である。それに気づかれなければ、ここにあるということさえ、知られない!

 ブログなどで、「自分はここにいる」と不特定者に知らせようとする、公開して見られたいと思うのは、自分は死んでいない、生きている、ここにあるということを、知ってほしいからだろう。自己主張の強い人ほど、やたら吠える。会社の会議室、近所の井戸端会議、人との関係から、自己、自己、自己が。

 そんな主張も、相手、それがたとえ空想の相手であっても、相手がいなければ「なかった」ものだ。他者が自己を誘発する。じりじりと、ひとり身の内にあったものが、自己として引き出される。

 ひとり、誰とも会わず、誰もいない、山の奥の中に暮らしたい、などと、そして想う。

 そんなことは無理だと分かっているのに、夢のようにそれを想う。

 不意に、自由を思う。おとなしい、何も言わない、無口な人間──でも何となくニコニコしていている人間──そんな人間の前では、僕はよく自由になれる気がした。

 そんな人間の前では、やたら饒舌になれ、ひとりで笑い、ひとりで傷つける気がした。

 たまに彼が、はにかみながら何か言ったら、一生懸命耳をそばだて、一心に聞こうとした。そして彼が言った、その倍以上のことを言い、彼が楽しそうに笑えば、僕も心底から楽しめる気がした。一人芝居が謳歌できた。だが、それも彼なくしてできなかった!

 カスミを喰って生きられないという。肉体はそうだろう。だが、霞、そいつは想い出、胸に残る情熱、過去にあったことへの思索、「私」をつくってきた、結局時間、そのものではないか。

 そして今も今が過去になっていく中にある。この時間はカスミを喰っているようなものだ… とは、ならんか。

「いっさいは、過ぎてゆきます」

「同じ川の流れに、足を浸すことはない。その水は、いつも新しいから」

 何を考えているのか。