その時だけの交流。でも、忘れ得ぬ人

 ほんとにその時だけだった。時間にすれば数分間、たいして話もしていない。

 でも、今もたまに思い出す人がいる。

 予備校に通っていた頃、朝の埼京線だった。満員電車で、テキストやノートの入った、給食袋を大きくしたような、肩から下げる布袋を持って、ぼくはもう、こんな所で生きて行けないような気になっていた。

 片手に吊り革、片手に布袋。後生大事に、胸に抱えていた。すると、目の前(正確には目の下だが)に座る女性が、「持ってあげる」と、ぼくの布袋を膝の上に抱えてくれたのだ。自然な、素敵な笑顔だったと思う。

 ぼくは「すみません、ありがとうございます」とでも言ったろうか。何となく気恥ずかしかった。でもそれ以上に、嬉しかった。またそれ以上に、なんでこんな満員電車なんだと、この状況を呪った。

 池袋か新宿に着いて、ぼくが先に降りたのか、彼女が先に降りたのか分からない。どんな人だったのか、顔も思い出せない。でも、親切にしてくれたこと、優しくしてくれたことが、ほんとに心に残っている。

 それから大学に通い始めた頃、京浜急行線の中で、やはり忘れられない人と出逢った。忘れられないというより、思い出す人、か。…同じことか。

 四人が座れるボックスシートに、ぼくとその男の人は向かい合って座っていた。初老…中年をちょっと過ぎた、という感じの人だった。

 そこへ、30前後か、とにかく若い感じの男が次の駅から乗ってくると、いきなりぼくらの座るボックスの横、つまり通路に、「体育館座り」で座りこんだのだ。立てた膝に顔をうずめて。

 ぼくと、その中年を少し過ぎたような男性は、通路側に座っていた。

 すると、すぐに彼は「座りますか」と、体育館座りの男に声をかけた。席を立とうとしながら。

 男は「すみません」と言って、譲られた席に座った。よほど疲れていたのか、すぐ眠り始めたと思う。

 ぼくは困った。咄嗟に、「あ、すいません、どうぞ」と、その立ち始めた中年をすぎたような男性に声をかけた。「あ、いいんですか」と彼が言い、ぼくが立った席に彼は座った。

 ほんの数秒間の間に、三人の男が座る場所を入れ替わったわけだが、この中年をすぎたような男性の、立派な感じの雰囲気、堂々とした、自然と醸し出されるような「あ、この人、立派な人だなぁ」とこちらが感じざるをえないような、ほんとの「自然な立派さ」をぼくは感じたものだった。

 ぼくのいた席に座ったその人は、腕組みをして目をつぶり、何か別のことを考えているようだった。どうしてか、「紳士」、立派な紳士だ、とぼくは感じ入っていた。

 埼京線の女の人も、この京浜急行の男性も、「自然」だった。まるでそうしないではいられないように、ぼくの荷物を持ってくれ、通路に座る男に席を譲っていた。

 どうしてか分からないが、このお二人… ほんとによく思い出す。