想いを思う

 朝6時には自動的に目が覚める。今日もタバコ屋に行かなくちゃと思う。昨日、注文したアイコスのテリアが「まだ入ってないんです」。月曜に入りますと言われていたのだが、行くのがちょっと早すぎたらしい。暑いし、フレーバーも切れ、午前中に行ってしまった。お昼頃に行けばよかった、いつも昼には入荷されている。

 しかし、おかげであの尼さんと逢うことができた。すれ違っただけだけど。

「尼さんショック」。あの衝撃は、たぶんその容姿からの影響が強いだろう。まずこの目に飛び込んできたのは、その容姿だったからだ。

 だが、それだけだったろうか? あれから一夜明け、ちょっと考えた。僕は、友達が欲しかっただけではないか、と。それも、ただよもやま話をする友達ではない。「あっちの世界」──何のための生命か、とか、この世は何なんだろう、とかいった、そんなどうしようもない疑問。そこから始まって、それについて考えざるをえない自我を抱えたような人。

 そういう人とは、僕はほんとに友達になれる気がする。そういう人とは、たとえ何も話さなくても、黙って木なんか眺めているだけで、おたがい、何か強い、共通の、通じあえるようなものを感じられ、「自分はひとりでない」と実感できるような気がする。

 彼女が仏門に入っていることは一目瞭然だった。宗教と哲学は、何のために生き、死ぬのか、といったところで、出発点は似ていると思う。宗教は苦手だが、一神教でない、ブッダの考えのような寛容な仏教は好きだ。まったく、ブッダは哲学、心理学者、ニーチェに言わせれば「衛生学者」のような人と思う。

 たしかにブッダの説いたことは、ややもすれば「虚しさ」にも通じる。でも、だから何だと思う。虚しいからって、それが何だ? 諸行無常、事実ではないか。ほんとのことではないか。

 それを見続けること、その中に生があること── それが生きるということではないか。

 確かに彼女は美しかった。だがその「美」は、僕の虚無、虚しい、いわばカラッポを見つめるもの、カラッポに包まれているという、そんな意識、心の向き方のようなものが、彼女を美しいとさせているのだ。いや、心に入ってくるものは、すべからくそういうものだ。自分が虚無、虚しさへ目の行く眼球を備え、自己自身がだから虚しい部屋のようなものであるから、「美」が、そして「醜」も「入ってくる」。あらゆるものが入ってくる、その影響を受ける感受作用から、自分自身が左右される。この存在じたいが、まるごと影響を受けたような情態になる。

 虚無であることは、素晴らしいことなのだ。それなのに、たいていの人は虚無を嫌う。

 僕は、昨日すれ違った尼さんに、「たいていの人と同じ」ような印象を持てなかった。あっちの世界… 虚無を、虚無として観じる、そのままの虚無として見ることのできる目を有している──そんな器のようなものを、彼女から僕は感得した。

もちろん一瞬の、数秒間のことであり、だからいっそう、確かなものに感じられる。また、僕がそういうものを、ひとを、求めていた、自分がそういうものであり、そういう人間だったから、というのも確かだろう。

 仏門に憧れた時期もある。だからその姿が、まして美しい女性であったから、憧れが憧れ以上の効力を発揮し、心に強い印象を残した、とも言える。

 だがあの暑い日中に、涼し気に、何事もないかのように凛として(まさに「凛として」としか相応しい形容がない)、あんなふうに歩ける姿は… 容姿以上の、まったく何か、形而上学的な何かが彼女に備わっていなければ、あんなオーラのようなものは出せないと思えるのだが。

 思い過ごしであっても構わない。まったく、何ということもないのかもしれない。でもあの時の体験、彼女から感得し、彼女が強烈に、鮮烈に入ってきた感覚は、貴重としか言えない体験だった。