住み分け(2)

 いや、むしろ「何も悩まないように」「考えないように」「臭いものにはフタをして」生きることがし易いような、そんなモノに溢れている、そんな水槽の中に泳いでいる、泳がされているような気もする。

 あまり「~されている」という表現は好きでない。そうされていることを選んでいるのは他でもない、自分自身であるからだ。やらされているのではない。やっているのだ。

 人のせい、何のせい、に持って行くのは卑怯であるし、誤魔化しであるだろう…。

 たとえそれが事実であるとしても、自分でそれを選んでいるという意識、自分からそれをやっているのだという意識、この希薄さよ。

 先日、夏休みの宿題を出さない小学校のことを、ラジオが言っていた。

 与えられたことをするのでなく、自分から好きなテーマ、課題を見つけ、それをやること。

 だが父兄の声は、まちまちであったという。「責任が本人にも芽生える」という意見があれば、「大丈夫かな」と不安視する。今まで学校まかせだったのが、家庭、つまり親たちも、責任のようなものを被ることになる──

 現状、学校の先生はほんとうに忙しいらしい。ぼくの一人娘は学校の先生と結婚したが、ほとんど家にいることがないらしい。部活やら採点やら、とにかくやることが一杯あって、大変な職業らしい。

 それはそれとして、この小学校の試み、素敵だなと思う。

 そもそも夏休みの宿題、べつに「出さなければならない」ものではなかったそうなのだ。

 ただ「そうなっている」ものであるだけで、他に何の意味もなく、「そうなっている」「そうしてきた」から、夏休みの宿題=当たり前のこと、となったということだった。

 まあ、それもそれとして。

 何が言いたかったんだっけ。情けない、そう、情けない、自分のことだ。

 たぶん「にほんブログ村」「ブログランキング」なんかに参加しなくても、いいんだと思う。これは、これについて考えながら書いて、初めて気づいたことだ。

「希望と絶望の間に」でググったら、目につくところにあるらしい。何か希望とか絶望、そういうところに興味関心のある人は、かってにこのブログを読むだろう。

 それも運命だ。

 でも、もうちょっと、しがみついていよう。昨日、読書のカテゴリーから消したが、もし自分の書くものに関心をもつ読者がいたならば、本的なもの、文字を追うことに慣れている人、が、その貴重な読者であるイメージがある。

「日々のできごと」が「読書日記」に入ってしまうのは残念だけど、許してもらおう。

 いやいや、今日も暑い。やっぱり歩こう。洗濯も終わった。