一選手

 女子サッカーのW杯、どこの国か忘れたけれど、イスラム圏内の出場国だったと思う。「女性は肌を見せてはならない」というキマリがあることから、その印象的な一選手を取り上げたニュース記事を見たからだ。

 女性だから肌を露出してはいけないなんて、おかしいじゃないか── 今回のW杯は、人種差別とかジェンダーとか人権とか、理念的なものも重要視された大会であるらしい。各国のキャプテンだか選手の代表だかが、五つある「理念」的なもののうちから一つ選び、その標語が書かれたワッペン?だかを腕に付けるという、そういうキマリもあったらしいのだ。(ラジオで聞いたのだが、曖昧で申し訳ない)

 だが、そのイスラム圏内の代表チームの一選手は、長袖を着て長ズボンのようなものをはき、試合に出たというのだった。

 女性だからといって「こうしなきゃいけない」、そういうキマリは、国際大会においては無くしましょう、というFIFAのはからい? 世界の流れのようなものがあるんだろうと僕は想像した。

 だが、その選手、彼女は「肌を見せない」という、イスラムの戒律のようなものを守りたいという、自分の意志でそうしたのだった。

 僕は、そうだよ、これこれ、これなんだよ、といたく感じ入った。

 男女差別はイケナイ。男女に限らず、差別はイケナイ。だから、差別をなくそうという方向にベクトルが向く。それはまるで、イイことのようだ。実際、イイことだと思う。

 だが、それが「イイ」のぜんぶではない。

「これはイイのだ。絶対まちがっていない」。その一つだけの方向に、みんながみんな行ってしまっては、そこからまた「そっちの方向に行けない」者が異端視されて、結局「差別」を生むことになる。

 大会運営陣が「善意」で「肌を露出してもいい」というキマリをつくったとして、それで喜ぶ者もあれば、「私はこうしたいのだ」と自分の意志で肌を見せない、そういう選手もいて全く当然なのだ。

 差別のことで僕がいちばん恐れるのは、みんながみんな「これが善である」として、それをホントウに正しいこととしてしまうことだ。

 もちろん、差別をなくすことはホントウに正しいことだ。でも、そのホントウには、一人一人の中にあるもので、集団の中にホントウにはあり得ないのだ。

 あの一選手は、勇気があるように僕には思えた。ホントウにその宗教を信じ、戒律を守りたい、それだけだったのかもしれないとしても。

 他の人と違う恰好をしていたからって、それが誰の迷惑になるわけでもない。

 一つのことを狂信すること、それが文字通り狂気に繋がる道程を孕むとしても──集団の狂気より、よほどマシというか… その一人の人をほんとうに理解したい、というような気にさせられる。