「どうにもならないこと」(1)

 昨日、プロ野球の阪神球団の近本選手が、またデッドボールを受けたというニュース記事を見た。何とも痛々しい。いや、痛い。つらささえ感じる。

 この選手は今季、同じ球団の投手から脇腹に死球を受けて肋骨を骨折させられている。今回も脇腹で、同じ箇所であるらしい。バッターボックスでうずくまり、痛みに耐える写真を見ると、ほんとうにこちらもつらくなる。

 こういうのに、私は弱い。「こういう」とは、「どうにもならないものによって苦しまされる」というものだ。

 硬い球を、すごいスピードで投手は投げる。それが身体に向かってきたら、打者は避けようがない。どんな意志をもっても、どんな技術をもっても、避けられぬもの。

 また近本選手は、人格者であるようだ。善い人みたいなのだ。そのような人が、一度ならず二度までも、同じ球団の投手からとんでもないボールを投げられ、痛みにうずくまる姿をニュースで見せつけられた。

 相手球団のヤクルトは、もともとデッドボールが多いチームといわれる。去年まで、私はそんなことを知らず、どちらかといえば好きなチームだったが、もう嫌いになってしまった。ヤクルトなんか、いくら身体に良い飲み物を売っていたとしても、もう買いたくない。

 真剣勝負だから仕方ないとか、投手だって生活がかかっているとか、そんなことより、私は苦しむ善良(そう)な人が、苦しむ姿を見るのが、何としてもつらく感じる。

 昔見た「家なき子」というテレビドラマでも、この「どうにもならぬこと」によって苦しむ幼女の姿に、はからずも、ずいぶん涙ぐまされた。社会のシステムのようなもの、いたいけな少女が、汚い大人たちによって、要するに苦しめられるというような物語だ。

 社会のシステムみたいなもの、そこにあぐらをかいて、汚れた金をかき集め、ふんぞりかえって偉そうにしている町の「権力者」がいた。

 そんなシステム、権力のようなものに対し、子どもは、いや大人さえ「どうにもできない」。

 哀しさとか悔しさとか、怒りの気持ちにも駆られて、私はあのドラマを見ていた。

 今回の近本選手へのデッドボールに対する私の感情も、それと同じような心理が働いている。

 いつか満員になりそうな電車の中で、主人の足元に縮こまって伏せていた、盲導犬のことも思い出す。盲導犬は、何も悪いことをしていない。どころか、素晴らしい「仕事」をしている。それなのに、どうして縮こまらなければならないのか。あの時も、悔しいような、怒りのような、奇妙な感情に捉われた。

 野球チームの監督というのは、一つの人間の集まり=社会、共同体のようなものを率いる、代表者のような立場であると思う。あのヤクルトの監督の、「仕方ない」と最初からあきらめているような物言いと態度も、どうかと思う。はっきり言って、腹が立つ。あんな姿を見せられては、もうヤクルトは買いたくない。