まず、引き込めるだけの環境があった。家(部屋)があり、金があった。
ああ、その前に「引きこもり」の定義をしなければ。
部屋(家)から一歩も出ず、文字通り外に出向かず「引いている」のがそれだとしたら、私の場合、引きこもりではない。食材を買いに行ったり、…そのためにスーパーへ行く。私が外に行くのは、ほぼこれしかない。目的が、それ以外にないからだ。
最初は、私はこの文を書くにあたって、「なぜ私は社交的でなくなったか」を書こうとした。社交場、職場とか将棋クラブとか、人と交わる、人のいる場所へ私が行かないからだ。また、交友関係もすっかりなくなった。以前は、かなり友達がいたと思うが、それも今は昔。
一緒に住むひとを得てから、私は友達を求めなくなったと思う。欲しいとは思うが、面倒臭さの方が重く感じられる。一緒に住むひととの関係の方が、ラクなのだと思う。ラクな方へ、私は行くのだ。
だから彼女と別れて、ひとりで暮らすようになったりしたら… もしかしたら、人を求め出すかもしれない。それともひとり、緩慢に… 自殺の道をゆっくり辿るかもしれない、それは分からない。
贅沢なものだ、わがままなものだ。
話を戻せば、つまり主にスーパーに行く以外に私は外へ出ることはない。朝ゴミを捨てに行くことはあるが、ほんの近所の話だ。ただ目的がなければ外に出ない。ただ外に出る目的のために外に出ることはない。
働くということは、お金が目的であるなら、私にその目的はない。日々細くなっていく通帳を見て、瞬間、…あるいはそれを想像して、何か突然焦せるような気持ちになるだけである。
これには私なりのわけがあって… ほとんどかき集めたホコリの玉のような、ハリボテみたいな球体のものだが、要するに私は、そんな長く生きたくないのだ。
ハリボテを一つ一つめくれば、理由が書いてある。〈 元々、おまえはそういう人間だったのだ 〉〈 こどもの頃から、おまえには自殺願望があったのだ 〉〈 おまえは社会にそぐわない 〉〈 おまえの生きれる場所はないよ 〉
いざとなったら、自殺。この思いが、いつものようにあったと思う。だが、今まで死ななかったということは、「いざという時」がなかったというふうにも思える。
一体、いつが「いざという時」だったのか。よく犯罪を犯す悪い人は、「殺して、自分も死にたかった」などと言う。
私には、そんなことをしてまで、というか、他人と自分は違う、と、そこは明確に分けている。自分が死にたいために、そこまで自分を追い詰めるために、追い込むために、人を巻き添えになんか絶対にしたくない。
私が自殺するとしたら、私のため、私だけのために死ぬのであって、ほかの人は全く関係ない。生きている間は大いに関係があるが、死ぬ時は、また死んでからは、おそらく私は、私という私からの関係を誰とも持つことはできないと考える。
また、私には、人との関係は、生きるためのものであって、断じて死ぬためのものではない── そんな信念のようなものがある。どうしてこんな信念が出来上がったのか分からないが、これだけは譲れない。
話を戻そう。なぜ私は引きこもったのか。
友達の言葉を借りよう(私にだって、一人や二人はいるのだ)。「職場に行って、家に帰って来て、それだけですよ」そして彼は、「引きこもってるようなもんですよ」と言ったのだ。
彼は、一種のパチンコ依存症のようなところがあったが、要するにそんな店へ今や「寄り道」さえしていない。
私は、そうか、と思った。毎日、決められた場所に行き、決められた場所に帰ってくる。一日中、日々家に引き籠もっている人は、「決められた場所」にいるだけであって、その往復をしないだけなのだ。そんなふうに思った。
また、彼の言葉を変換すれば、「家」と「職場」以外に、「世界」がないのだ、というふうに感じられた。その私が、自分を省みれば… もう世界を知りたくないというか、「新世界」に行くのはもうイヤだなぁというか… 「そっち」へ行くぐらいなら、「こっち」で引きこもっていたいよ、という方向へ行っている自分を自覚した気になった。
「私」というものが、どうも私にはデンと構えているらしい。
話を戻そう… いや、長くなりそうだから、ここはここまでにしておこう。