いじめのこと(2)

 自分のことを懲りずに書けば、いじめ、というか暴力を受けて、私は全く後悔していない。そうされることを覚悟の上で、そうされた、と言っていい。

 学級委員長の前任者が(彼も暴力を受けて辞めていったが)私を次の委員長に指名したので、私はクラスの中をどうにかしようとした。要するに、もう三人はいじめを受けて退学していたので、もうこれ以上、辞めていく人を見たくなかったからだ。

 でも結局、どうすることもできなかった。私は定時制を辞め、ちょうど代々木にできた「大検コース」のある予備校に通い始め、そこでいい先生とも巡り会い、大学にもうかったりしたが、結局私は定時制から「逃げた」。これは自分の運命のようなものだったと思う。

 とにかくイヤだったのだ、暴力を受けることが。受け続けることが。それ以上に、逃げた理由は無い。

 でも逃げることで私は別の場所に行くことになり── 偶然、必然の運命だったとしか、やはり思えない。大検を知らなければ予備校なんか行っていなかったし、家にそれだけのお金がなければ通えもしなかった。

 親は、もちろんムリをしてでも行け、とは言わなかった。定時制高校に「この子が安心して授業を受けられるようにして下さい」と言いに行っても、何も変わらなかった。(授業中は、私にいろんな物が投げられもしたので)

 私が自殺しようと思わなかったのも、「自分は正しい」という、正義感めいたものがあったからだ。正しいと思えることをして、それがうまくいかなかった。自分の思いが実現しなかった、先生も味方になってくれなかった、という悔しさはあった。でも、自分は正しい、という、そんな思いが私には強かった。だから後悔ができない。

 一般に、「自殺するほど苦しいのなら、そこへ行かないでもいい」という考え、意見がある。でも行かなければ行かないで、今度は別の不安に襲われる。どうあがいても、人生は不安の連続だよな、と殊勝なことを思ったりするが、実際そうなのだ。

 昨日か、フランスで学校のいじめ、暴力に法的な処置をとる、という見出しのニュースを見た。「法的な処置をとることの法律」か、見出ししか見ていないから詳しいことは知らないが、学校の中でのいじめ、暴力は、そういう対し方をして私は不自然さを感じない。悲しく思うのは、「法」でないと対せないのかというところで…。

 仕事先の職場なんかでも意地悪な人間はいる。~ハラスメント、という言葉も、いくつもある。「~ハラスメント」を盾に、要するに法的な、決められた規律的なもの、それを水戸黄門の印籠みたいに掲げ、それでおしまい、「解決」みたいにするのは、しかしそれはそれで本当にどうかと思う。結局、「何も考えない」人間がまた横行する、闊歩しだす気がする。

 べつに誰からも求められていないが、もし私が、学校でいじめにあって「死にたい」と考えている人がいたら、その人やその保護者に向けて言えることがあるとすれば、「自殺するほどのことでは決して無いこと」、苦しい、それは本当に苦しいこと(今が)、という、… とにかく「死なないで」ということに尽きそうだ。