身体に左右される(1)

 身体に振り回されていた、と言ってよさそうだ。

 気持ちが身体を振り回す(=動かす)、気持ちが「私」の80%、90%を支配している、と思ってきたが…。

 日常生活の、コレをしようアレをしよう、そう思って動く身体の基盤は「気持ち」である。これに間違いはない。

 だが、それは全く日常の、あまりに当たり前すぎるようなことで… これはホントに当たり前なのか?の疑問さえ浮かばぬほどの「当たり前」だった。

 だが、その「気持ち」は、… 何としてもこの身体があってのことだった!

 目に見える身体。目に見えぬ気持ち。私はこの後者に重きをおいて(おかざるをえず)、その詳細を自己分析するように書いてきたつもりだったが。

 この「目に見えぬもの」に重きをおき、だから「なぜ生きているのか」という、「いのちは何だ」というようなものへベクトルが向かっていたが…(向かわざるをえなかった)。

 それこそ、じつは「目に見えるもの」だったのではないか?

 なぜここにいるのか。なぜ生きているのか、なぜ、なぜ。

 その答のようなものは、「ここにある」「生きている」という、ここ・・に既に、そのままにあるのではないか。

 すなわち、ここに身体がある。目があり口があり、内臓があり腰があり… 緻密な、精密な臓器の働き、つながりがある。たえず血が巡り、心臓が止まらず、頭の天辺から足の爪先まで、全体にして一体の、この身体がある。

 これが、「見えないもの」への、既にある答、だったのではないか。

 あるということ、ある・・ということ。

 これは何も「私」に限った話で勿論なく。この世界全体がそうなっている、そうして成って・・・いる、そうしてある、ということではないか。

 あるということ。在るということ。

 あったということ…

 私の生存理由。ここに身体があったということ。

 同様に、「私」以外のもの、あらゆるものも同様に、ここにある、ということ…