身体に振り回されていた、と言ってよさそうだ。
気持ちが身体を振り回す(=動かす)、気持ちが「私」の80%、90%を支配している、と思ってきたが…。
日常生活の、コレをしようアレをしよう、そう思って動く身体の基盤は「気持ち」である。これに間違いはない。
だが、それは全く日常の、あまりに当たり前すぎるようなことで… これはホントに当たり前なのか?の疑問さえ浮かばぬほどの「当たり前」だった。
だが、その「気持ち」は、… 何としてもこの身体があってのことだった!
目に見える身体。目に見えぬ気持ち。私はこの後者に重きをおいて(おかざるをえず)、その詳細を自己分析するように書いてきたつもりだったが。
この「目に見えぬもの」に重きをおき、だから「なぜ生きているのか」という、「いのちは何だ」というようなものへベクトルが向かっていたが…(向かわざるをえなかった)。
それこそ、じつは「目に見えるもの」だったのではないか?
なぜここにいるのか。なぜ生きているのか、なぜ、なぜ。
その答のようなものは、「ここにある」「生きている」という、ここに既に、そのままにあるのではないか。
すなわち、ここに身体がある。目があり口があり、内臓があり腰があり… 緻密な、精密な臓器の働き、つながりがある。たえず血が巡り、心臓が止まらず、頭の天辺から足の爪先まで、全体にして一体の、この身体がある。
これが、「見えないもの」への、既にある答、だったのではないか。
あるということ、あるということ。
これは何も「私」に限った話で勿論なく。この世界全体がそうなっている、そうして成っている、そうしてある、ということではないか。
あるということ。在るということ。
あったということ…
私の生存理由。ここに身体があったということ。
同様に、「私」以外のもの、あらゆるものも同様に、ここにある、ということ…