結局、採用された。
のちに、「ほんとにありがとうございます、落ちると思っていました」と面接官だった人に言ったら、「人がいないもんで…」と言われた。正直な人だなぁと思った。
今回の職場は、自分にとって最も「合わない」と痛感した場所だった。特に接偶面(入居者さんとの接し方)での注意は、今後自分がどうやっていったらいいのか、全く分からなくなってしまった。
「この人(90歳位のおじいちゃん)はネガティヴだから、前向きに接して下さい」
その人は、いつも何かを探して歩き回っていた。
私は一緒に歩きながら、声を掛ける。「見つからない?」
「うん…。どうしたらええんやろ」
「なあ。どうしたらええんやろなあ」
沈黙。
「心配?」私が聞く。
「…」
「心配だねえ」
「… いやあ…そんな心配でもないんだけど」と言って、その人は可笑しそうに笑った。
だが、この接し方は、「前向きな」ものではなかったのだ。
「ふたりで考え込んでどうするんですか」と、こちらの様子をうかがいながらコンピュータに向かっていたリーダーに注意されてしまう…
ところで、先日私は腰を痛め、整体師に施術されながら、介護の話をした時のこと。
「認知症って、望んでそうなるんじゃないかと思います」整体師が不意に言う。
「えっ?」何のことか、最初は分からなかった。
だが、考えてみれば…
思い当たるフシはある。以前勤めた施設に、「普通」の頃は真面目で気さくで、いつも笑顔の婦人だったろうなあ、というおばあちゃんがいらっしゃった。でも、真面目で気さくで、笑顔であることに疲れちゃったのかな、ムリをしていたのかな、と想像した。
もう、自分にムリをさせたくない。もうイヤになっちゃった。そんな心のはたらきが、認知症になることを望ませる、もうボケちゃいたい、と、望ませるのだろうか。
身体からの本能の訴えのように…
そんなふうに考えられないこともなかった。
望んで認知症になる人はいないはず、としか考えていなかった私の頭に、この整体師の言葉はかなり衝撃だった。
私のパートナー(一緒に暮らしている彼女)の両親も、ほどほどの認知症である。彼女にこの話をすると、「ああ、分かるなあ」と言う。
「自然にそうなってる、っていうのが、見ていて分かったもん。それは本人が望んでいるようなもので…」と。
認知症の人を見て「かわいそうに」と思うのは、周りの人間の意識だ。
当人は、自分をかわいそうだなんて思ってもいず、意識もしていないかもしれない。何だかんだ、施設の中で好きなことをしているのかもしれない。
「認知症」と命名し、判断するのは「健常者」であり医者だ。
老いて、足腰や脳にガタが来るのも当然だ。来ない方がおかしい。
でも、それはとても自然なこと。
すると、健康とは、普通とは、病気とは、異常とは── そもそも一体、何だというのか。
「認知症」→(病気)→普通じゃない→「あんなふうになりたくない」という思考軌道が、認知症の人を見る、傍観者の内に出来上がっている気がする。自分もそうだったのかと自問する。
同情。かわいそう。そんな上から下へのベクトルの働きは、相手に失礼である、という言葉もあるのに。
しかし… せっかく採用されたのに、もうイヤになっていた自分がいた。
職場に、合う/合わないはあるにせよ…