冬の朝の腰痛について

 朝、布団から出るのに一苦労。
 亀の体勢から、柱に向かって這う。
 柱をつかみ、右足、左足を踏ん張って立ち上がる。
 ここで失敗したら悲惨な結末になるだろう。

 しかし、立たなければならない。
 そして立ち続けられるのかどうか、立ってみないと分からない。
 柱と壁をつたいながら、居間の椅子を目指す。
 ジーパンや着替えが、その背もたれに掛かっているのだ。

 やっと、たどり着く。
 パジャマを脱ぐが、これが床に落ちるのが恐ろしい。
 落としたら、拾うのに、腰をかがめなければならない。
 シャツを落とすと、この世の終わる思いがする。

 上半身の更衣に問題ない。
 朝の冷気がつらいだけである。
 問題は下半身だ。
 右手をテーブルにつけ、左手でパンツを持ち、左足を通すべく、努力する。

 足が上がらないから、床スレスレに、足を通す。
 左が終わったら今度は右…。
 股引( パッチ)もはく。
 裾の部分が狭まっているから、なかなか足が貫通しない。

 寒いのもつらい。
 痛いのもつらい。
 やっとはいて、そしてジーパン。
 靴下は、断念した。
 手が、足の先まで届かないのだ。
 居間に来た家人に、はかせてもらう。

 こないだまで介護をしていた人間が、介護される人間になっている。

 今度はトイレの問題だ。
 座って、事を終えた後、お尻に手が届かない。
 左側のお尻のほうから、手を伸ばすが、届かない。
 やむなく、股間から手を入れて、目的地へ向かう。

「くしゃみ」が、また恐ろしい。
 腰に激痛が走るのだ。
 テーブルの角や椅子の背をつかみ、身構えて、最小限のくしゃみをする。
 それでも激震が腰を貫く。

「笑い」も禁物で、本気で笑うと腰が砕ける。
「泣く」のは、たぶん大丈夫だろう。
 怒りのようなものは、思うように動かない身体への不満から、それに似たような気分が胸奥にある。
 こんな気分から、人に当たる人は、当たることができるのだろうか。

 イラ立ちを、何かにぶつけて、どうなるというのか。
 で、軽く笑うようにしている。
 こんな状態になったら、まったく、笑うよりほかないではないか。

 何でもなかった、2、3日前の身体が恋しい。
 しゃんしゃん歩けていた日曜日が懐かしい。
 しかし、自然治癒することは、分かっている。
 そして痛みが癒えたら、けろりとして、それがどんなにつらいものだったかも、きっと忘れてしまうのだ。

 いや、身体の痛みは、本能的に脳だか何だかが「忘れよう」とする、という話を聞いた。
 つらかった心の思い出は、なかなか忘れられないのに。

 身体のつらさは、心が「そっちはあちきの持ち分じゃないよ」とでも言うかのように、さっさと忘れ去られるものらしい。
 思い出は、身体ではなく、心に残るものらしい…。

 昔も腰痛に悩まされたが、「痛い」という輪郭がぼんやり残って、その痛みの詳細、度合いについては、よく覚えていない。
「すごく痛かった」とは言えるけれど、まるで他人事のように言えてしまう。

 心と身体は、別々であるのだろうか。
 臓器の1つ1つは、それ自身の働きをしながら、相互につながり合って働いている。

 心と身体も、きっと同じような関係であるはずだが…。