しかし柳美里といい池田晶子といい、ハッキリ物を書くなあ!
下田治美も、思想的なものは何も書いていなかったが、その潔い書き方が大好きだった。三人しか知らないが、女性はハッキリした物言いをする気がする。
池田晶子は「私には個人の意見というようなものはない」と言った。
客観的にしかなれなくなった、という意味かと思ったが、先日、ある人と話をしていて、
「それはもうあらゆる他人の意見を取り入れて、自分の意見はすべて借り物であるという意味でしょうか」
と言われた。
ああそうか、そういう見方もあるのかと思った。
「学者は本をあちこちひっくり返して調べるだけで、しまいには自ら考える能力をすっかりなくしてしまう。
本をひっくり返していない時、彼は何も考えていない。学者の場合は考えるといっても、何かの刺激(── 本で読んだ思想)に答えているだけである。
結局のところ、何かにただ反応しているだけのことだ。
学者はすでに誰かが考えたことに対して肯定だと言ったり否定だと言ったりする。
つまり批評する、そのことに力のすべてを使い果たしてしまい── 自分ではもはや何も考えないのである *」
ニーチェの、そんな言葉も思い出す。
しかし大抵の人が、いまやこのような「学者」及び「批評家」的要素をもって、要するに関心の対象から一歩引いた立ち位置、自分に関すること以外はすべて他人事、この世界に起きていることを車窓に流れる景色のように眺め、適当に何かスマホで呟いているだけの人が… このような要素をもっているのではないか。
… オレか。
ミュージシャンの奥田民生の、「モーツァルトやベートーベン、もう、いっぱい名曲は出ました。もう僕ら、あとは聴くことしかできないですよ」みたいな言葉も微かに被る。
「今は過渡期なのかもしれませんね」先日会った、その人は言った。
いつの時代も、ずっと過渡期であった気もする。
しかし… どこへ渡ろうとしているのだろう?
*「この人を見よ」(新潮文庫)