批判精神と同調意識(3)

 さて、その影を踏んでいくと── 影踏みは、この足とその地べたとの確かな接触、確かな足ごたえ・・・・がある!── はたして私が踏んでいるのは何であるのかという疑問が湧いて来る。この影を追うばかりに専心して、一体私の本来の目的は何だったのか?と忘れてしまうこともしばしばある。
 だが結局、またあの正体不明の本体の存在に気づかされるのだ。影だけが、しかとある。あばいてやると追い掛ける…

 こんな時、私は童心に帰っているのかもしれない。「なぜ、なぜ」と執拗に追いかける、執拗なストーカーと化しているのかもしれない。そして相手からは何の反応もない。おそらく、私にしか見えないものなのだ。

 敵… 敵ではない。相手、といっても、見たこともない。顔も知らない。はたしてほんとうに… 、とでもしておこう、は何なのか。ほんとうに存在しているのか? 私だけに見えている(否、見えてはいない、感知・・している、感知するしか術ないもののようだ…)ということは、私は既に狂ってしまっているということではないだろうか?

「狂わなくちゃ、芸術なんてできません」考える人がいう。
 いや、私は芸術なんてやっている気はありません。それにもう、あなたとは同胞であることは知りました。私は、一般大衆者に向かって問うているのです。自分が、はたして狂っていない、ということを確かめるために問うているのかもしれません。

「天才は、天に向かいます。一般大衆など、無視しなさい」考える人はいう、「普通? 多数? 普通になりたくてもなれない、それが本物です。奇をてらい、小細工をしてウケを狙う、小賢しい、さかしらな者どものことなど、意に介さない。ばかみたいに天に向かうこと。これが天才の本分というものですよ。エジソンだって、ニュートンだって…」

 考える人は、ほんとうにこんなことをいっているのだ!
 いや、思い上がらせないで下さい、私はただ他の人、「一般」と呼ばれるようなそれも幻影かもしれません、でもそのような幻影と、どうも違っているみたいなのです。

 確かに私は公教育をほとんど受けておりません、拒否しました、そして年を取りました、まわりは、一般に、私はもうそのような公の場には行かなくなりましたが、そのような場では「公教育を受けないと私のような人間になるのか」と危惧、期待、安心、様々な印象を持たれました。

 誰も、いや、どこかにそのような人もいたかもしれませんが、「あ、この人はこういう人であるのだ」という、教育を受ける/受けないに関わらず、「私は私なのだ」ということ、そこのところ、運命的な自然的な、個としての人、として私を眺める見地をもった人が、希少であったように思えてなりません。

 言い訳のように私は考える人にいう。
 それは何も、そのような限られた、限定された・・・・・場所で起きていたことではないのです! 〈 社会 〉に出た私は、実に、一定の価値観にのみ己を立たせ、そこからのみに生き、そこからのみに存在を続ける存在、その大きさ── これが私の多数・・をつくるものです── に圧倒、目も当てられないほど圧倒され続けているということなのです。

 考える人はいう、「それはわたしに向かっていっていることではないですね」考える人はすべてお見透しのようにみえる。
 いや、あなただってそうでしょう、物を書いて、あなたは人に見せるために…… 知らない第三者、不特定の者、多数とも少数とも知れぬ者、正体不明の者に向かって… あなたは考え、それを書き、考えながら来たのではないですか。

 正体不明のもの。はたと気づく。正体不明のもの、私はそれに向かっていたはずだ、と。