批判精神と同調意識(5)

 批判精神。否定する意志。No!と言う対象を見つける態度。アラ探し。
 日常の対人関係でも、いちど相手の決定的な短所、こちらにとって不都合な、具合の悪い「短所」に足を引っ張られる思いのする場面が多い場合、その記憶によって「またこういうことをされはせぬか」と己の臆病さ、「自分のペースが乱されはせぬか」という不安から己を守るため、相手の言動に過剰な注意を向けるものだ。

 そして相手を「矯正」させようとする。何回かそれを試みるが、それはこちらから見ての相手の「欠点」であり、その欠落した部分は相手にとっては、その人をつくる一要素、彼という完成されたパズルに欠かせない一ピースなのだ。

 まして彼が結婚相手であれば、こちらはその彼を好きになった、彼に同意した・・・・ということである。生活を始めてみれば、結婚を決意させた彼、好きになった彼から、意外の面を見せられ失望を味わうこともある。失望は、こちらの想定した通りに事が運ばぬ場合にのみ表れる、その時だけであれば失望に留まるがそれが数回重ねられると決定的な絶望となる。

 絶望は暗澹たる気分である。そこへ落ち込ませる言動を、一つ屋根に暮らす相手が度々する! 暮らしが、徐々に耐え難いものになってくる。絶望したくないために、なるべく顔を合わせぬようにする。家庭内別居の始まりである。次第に、一体何のために一緒に暮らしているのだろうと思えてくる。

 このような過程、時間が家庭に留まらず、この「全世界」がこのような「家庭」であったとしたら。
 あなたはどこに自分の居場所を見つけ出すことができるだろうか。自立した生活を送る経済力もない。離婚もできない。子どももいる。あなたは身動きがとれない。

 ここであきらめる── あの素晴らしい知恵、「仕方ない」から不承不承、眉間に日に日に濃くなる皺を寄せながら「ここより他はない」場所から逃れようもなく生活を継続する。

 だが、そうなれない、ある種の人々がいる。彼らはメーファーズの船に乗れない。河口付近に留まり、沸々と地殻変動、湧き上がる硫黄の匂いをその身の内に嗅ぎながら、火の水が昇りつめ、その出口をつくるために我が身に穴を開ける。

 そうして噴出したものが── 憎悪、怨嗟、妬み、憤怒、悲しみ、その身に抱えられるもののあらゆる情念の噴出が、そのひとの創造した縷々たる著作となった。その本は「助けてくれ!」の叫びにも聞こえた。「理解せよ!」の命令にも聞こえた。
 
 批判精神。そのひとは、この世のありとあるものを敵とした。相手にされなくても、敵とした。攻撃するに足る論理、夥しい言葉の数々を駆使し、とりわけこの世の絶対的な神を攻撃した。

 否定する精神。精神は否定によってより目覚めていく。「否!」「否!」「否!」かれの精神は、その対象が強大であればあるほど、それじたいもより強固強健となる。生成に必要な栄養、その身に相応しい敵を厳選し、その身の栄養としつつ、その身には穴が開いている。かれはやつれていく。穴、穴! 穴が、かれの身内にぽっかり巨大な穴が開いている。深遠な、底なしの穴。

 だがかれは跳び越えていく。跳び越え、跳び越え、跳び越えていった。かれはいつしか、自分自身より先へ・・・・・・・・行ってしまった。