文体

 投稿サイトやブログに何か書く。それはそれで安易な、お手軽にできる自己表現に違いない。
 この頃、定期的に以前からやって来るものではあったが、「これでいいのか?」がよく胸をよぎる。
 このような書き方に慣れてしまいすぎてはいないか? 作品、と呼べるようなものを何一つ書いていない… このままでいいのかという、焦燥感めいたものが不意に来る。
 自分の体験を書く、あの頃の、その頃の。なるべく事実に即して。事実に、心身、持って行かれるように。事実あったことをよく見つめることで、思わぬ表現、言葉がこぼれ落ちるように。だがその頃あの頃はもう過去になっている。現在、今から、どんなにその事実、過去にへばりついたところで、その事実を正確に、克明に、そのままに正しく書くことはできない。

 もし書くことができたとしても、それは断片的な、瞬間的な場面であって、それも「私」から見ての、私の網膜に映った景色に過ぎない。聞こえた声にしても、その声の主には不本意、「そのように解釈されては困る」とするところの言葉であったかもしれない。私の眼に映った彼・彼女の表情は、こちらの受けた印象とは全く違った心の発露であったのかもしれない。私がその心を、感得し、みていたその人の心は、ぜんぜん違うところにあったのかもしれない。

 知らぬがホトケ。

 ホトケにはなれない。私は知りたいとおもう。
 セリーヌの文体。その内容。「彼が見ていたものは幻覚だ」とジッドは言ったらしいが、そういうていでしか書けない、そういうていだからこそ書けた── 幻覚のすごさ、一種の狂気のような、それでいて面白可笑しい、友達のように読者に語りかける…
 憎悪はエネルギーだ、強度の強い。と同時に、だから愛めいたものも同様に。
 セリーヌは戦争を憎み、社会を憎み、世界をノンとしたかもしれない。彼の墓には「ノン」と刻まれているという。でもこの「ノン」は表象にすぎない、この「ノン」は、この「ノン」を覆う、もっと大きな認定、肯定、YESが、墓のまわりに、空気のように覆っているように見える。「ノン」空を突き抜けていく、同時に、YESもそれを包んで。

 セリーヌの小説は「文体破壊」とも揶揄されるが、本人も言っているようにあれは「生きた言葉」に思える。言葉は対話の中にこそ生きる。セリーヌの文体は生きている、読者に向かって、生きている…

 ああ、こういう書き方。ちんぽこだのおまんこだの、糞だの何だの、荒々しい表現もある。でも、それはどこまでもうわっつらだ。シャルル・アズナブールは好きな作家に「セリーヌ」と答えている。うわっつらの下を、本質を、ちゃんと見れる人だったのだろう。反ユダヤ、国賊作家などと、セリーヌを罵倒、そこしか見れない者どもの軽薄さよ。
「夜の果ての旅」「なしくずしの死」を読むかぎり、セリーヌは差別なんかしていない。この二冊、上下だから四冊の、一体どこがいけなかったのか、何が危険だというのか、ぼくには全く分からない。
 こういう表し方、こんな態勢で、こんな小説が書ける── セリーヌという作家から、勇気をもらう。