セリーヌの怒り

「戦争と病気という、この二つの果てしない悪夢を除いて、僕たちの心底の気質の真実の現われがほかにありえるかどうか、僕は疑問に思わざるをえないのだ。」
「生活をくたびれさすもの、要するにそれは、二十年、四十年、いやそれ以上も分別を保ちつづけようとして、すなおに心底から自分自身になることを避けようとして、つまり、汚れた、残忍な、ばかげた正体を現わすまいとして、僕らが自分に押しつける苦労にほかならないのだ。」
 セリーヌが『夜の果ての旅』で言っている。
 再読を続けていて、やはり面白い。サルトルが熱狂して読んだといわれるセリーヌ。確かに熱狂させるものがある。
「城から城」「死体派」も昨日届いた。もう読むまい、「なしくずしの死」までだ、と思っていたが…。
 この独特すぎる世界、一見毒に見えるがそれだけで決してない、やさしすぎる、愛しすぎる、すぎるほどに強かったセリーヌの人となりが毒を吐かせているだけだ。

 心底の気質の真実、人間の。
 セリーヌは戦争でそれをいやというほど、いやともいえないほどに見、また医師として戦後は日常の中にそれを見、見るどころかその中で生きるほかないという、まさに死ぬまでの悪夢、その生を最後まで生きた。よくやった!
 戦争は、確かに極限状態だったろう、人間の気質の顕われ、これ以上の顕われはなかったろう。そういう時に顕われるものだろう、人の気質というものは。
 戦争が終われば平和になるはずだった。ところが、そんなことはない、ありえない。変わらないからだ、気質が!
 セリーヌは内科医だった。だが、人の身体を診れば、その精神だって見ることになる。しかも医者を訪れる人はきまって病人だ。死への不安。病人はひとり戦場だ。しかもこの死は誰にだって抱えられている。

「自分に与えられたびっこ・・・のくだらん人間を、朝から晩まで常に超人として、普遍的な小理想として示さねばならん強迫観念。」
 わかりにくい描写。自分に与えられた、とあるから、医師セリーヌ自身のことか。「くだらん人間」とは患者のことか。医者は超人として普遍的な小理想「健康」への道筋を提供しなければならないということか、患者からその苦痛・不安を取り除く聖職者みたいに崇められて。
 それとも、セリーヌ自身が不具者としての人間という運命を与えられ、しかしくだらん常識、狂気を隠して、自分は常識人であることを示さねばならない強迫観念のもとに「超人」となる、誰もが自分を超えて生きている、という意味か。
 たぶん前者だろう。

 再読だが、難解といえば難解だから、冗談でなく何回も読み直す。最初に読んだ時より時間がかかっている。さらに二冊も頼んでしまった。昨日「死体派」をちょっと読んだが、やはり面白い。小爆笑してしまう。人魚と罵り合う掌編なんか… ほぼエッセイのような、幻想的なものだが。
 罵詈雑言、怒り、憎悪を含む汚い言葉でいっぱいだが、やっぱりそれだけでない。笑いを禁じずに、読めやしない。
 なんだかんだ、幸せなんだな私は。