回る

 ひとりが基本、ひとりひとりが基本。
 そうして世界、成り立っている、それぞれに、それぞれの立ち位置から、その目線、その視野の範囲内、その限界を越えることなく。
 それで平和でありゃあいい、平和? 何をもって? 定義もイメージも曖昧なままに、ぼくら、喋り合い、笑い合い、泣き合い、怒り合い。合う? 結局、ひとり作業ではないか。
 で、点と点が、わけわからぬうちにむすぶり合い、まじり合う、良しにつけ悪しにつけ。これはもうどうしようもないものだ。心が、そうせよ、と命じるものは。
 ところで、この心は誰に命じているのか?「私」にであろう。そしてその「私」が誰であるか、なにものであるか、誰も知らないのだ。

 イスラエル、ガザ地区、ロシア、ウクライナ… きりがない。しかし中東の方のそれは、ウクライナ侵攻の時ほどの衝撃を僕に与えなかった。ショックというより、ずんとした重さ… 暗い、どす黒いものに落ち込む気持ちになった。
 慣れていい習慣と、そうでない習慣がある… 子どもの頃から、「インドとパキスタンの紛争は」とか「イランとイラクのイライラ戦争」などという、耳目に入って来ていたもの。「あっちの方じゃ、いつもやってんだ」という声も聞いた。あっちの方、とか言ったって、どうしたって世界は繋がっているのだ、遠いも近いもない、対岸の火事なんか本当はない。言い古された言葉でいえば、結局同じ人間、「私」を抱える人間の行いだ。

 セリーヌを読んでいると、またいろんなことを考えさせられる。彼の反ユダヤは、おそらく正しかった。それと虐殺は、また別の話だ。ヒットラーのこと、当時のこと、ぼくの足りない頭で想像を飛ばす。
 先入観が覆されること。これが貴重な体験となるだろう。発見になるだろう、「私」がなにものであるのかを、自己の内に、本を通じて、人を通じて。不快であっても、よく読み、よく見ていたいと思う。

 まったく、何がどうなるか分かったものではない。おぼろげに分かっていたとしても、はたして楽な習慣へ入り浸ろうとする、ちっぽけな自己満足のために、心は。
 安売りされた平和。つくられた、みせかけの平和に踊らされ。惑わされ。しかも心からそれを好み、当然のようにそれを求め。何の疑いもなく。用意された舞台装置の上で。ぎしぎし音を立てて。
 それがさも当然であるかのように。不安を感じることさえ、とっくに麻痺して。「そうしないと生きて行けないよ」を殺し文句に、プラカードを心におっ立てて。
 そんな公道を往く人間のイメージに向かって、路地裏で喋る、ぼそぼそ、べらべらべらべら…

(某投稿小説サイトに書いた文章)